ピュリファイド・マリス

倫理の融点

戦争が――いや、「防疫活動」が始まってから一週間。

私はオフィスの最奥にある解析室に籠もり、あの夜のプラチナ・ホールで何が起きたのかを検証し続けていた。

目の前のモニターには、二つの3Dモデルが浮かんでいる。

左側は、一般的な「喜び」のクオリア波形。それは流れる水のように滑らかで、常に揺らぎ、時間が経てば霧散していく。

問題は、右側だ。

導師ヴァルダスから抽出され、そして今や都市中の人々の脳内にコピーされてしまった「信仰」の波形。

それは、動いていなかった。

波打つことも、減衰することもなく、まるで鋭利な幾何学模様のまま、脳内の微小管にへばりついていた。

「……結晶化(クリスタリゼーション)、か」

私は戦慄とともにその正体を理解した。

通常、感情とは一過性の電気信号(イベント)だ。どれほど激しい怒りも、時間が経てば脳の可塑性によって中和される。

だが、導師のそれは違った。

何十年にもわたる厳格な修行と、異教徒への絶対的な拒絶の繰り返しにより、彼の脳内では排他感情が「信号」ではなく、微小管のタンパク質構造を変質させる**「固着した状態(ステート)」**へと昇華されていたのだ。

信号は「ソフト」だが、構造は「ハード」だ。

私の開発した『ブリーチ』は、あくまで流れてくる水を濾過するフィルターに過ぎない。水の中に混じった微細な「氷の欠片(種結晶)」までは除去できなかったのだ。

そして、悲劇は起きた。

過冷却の水に氷の欠片を一粒落とすと、水全体が一瞬にして凍りつく現象がある。

それと同じことが、人々の脳内で起きたのだ。

ブリーチされて「透明になった信仰の結晶」を受け取った人々の脳は、その結晶を核として、自らの微小管を一気に組み替えてしまった。


これは感染ではない。

**強制的な進化(アップデート)**だ。

一度結晶化してしまった脳は、二度と元の液体(柔軟な思考)には戻らない。彼らの脳には今、物理的に「異物を受け入れない回路」が焼き付いているのだ。

「……気づいたみたいだな」

背後で電子ロックが開く音がした。

カシマだ。

彼は軍服に近い、機能的なジャケットを羽織っている。その顔つきは以前よりも引き締まり、迷いのない瞳をしていた。

彼もまた、あの夜に「結晶」を取り込んだ一人だ。だが、元来の知能の高さゆえか、彼はその排他衝動を「愛国心」や「職務遂行能力」として完璧に制御(利用)しているように見えた。

「カシマ……これは異常事態だ。今すぐQ-Nectの全サーバーを落とし、接続を強制解除しろ」

私は立ち上がり、彼に詰め寄った。

「これは感情の共有じゃない。脳の器質的変異だ。このままでは、国民全員が思考停止した『反射装置』になってしまう!」

「反射装置? 言葉が悪いな」

カシマは私のデスクに歩み寄り、モニターに映る「動かない波形」を愛おしそうに指でなぞった。

「これは『安定』だよ。人類が長年求め続けてきた、迷いのない境地だ」

「迷いがないのは、思考していないからだ!」

「思考こそがノイズだ」

カシマは冷徹に言い放った。

「見ろよ、今の戦況を。我が軍の兵士たちは、恐怖も躊躇いもなく、驚くほど正確に『不衛生な』敵を処理している。PTSDの発症率はゼロ。作戦遂行速度は過去の戦争の三倍だ。……彼らの脳が結晶化しているおかげでね」

私は言葉を失った。

カシマは知っていたのだ。この現象の正体を理解した上で、それを軍事利用しようとしている。

「君のお父さん(理事長)は……これを知っているのか?」

「理事長は古い人間だ。まだ『倫理』なんて言葉に縛られている」

カシマはふっと自嘲気味に笑った。その笑顔の奥に、かつての友人の面影がわずかにちらついた気がした。

「だから、僕が判断した。理事長を説得し、軍部と直接契約を結んだよ。……この技術は、僕たちの手で管理しなきゃいけないんだ」

彼はポケットから一枚のデータチップを取り出し、デスクに置いた。

チップには軍の極秘マークが刻印されている。

「次のフェーズだ、CTO。その『結晶化』のプロセスを応用してくれ」

「……何をする気だ」

「個人の脳を結晶化させるだけじゃ足りない。軍が求めているのは、部隊全体を一つの巨大な結晶にする技術だ」

カシマは低い声で告げた。

「『群体意識(ハイヴ・マインド)』。指揮官の脳をマスター・クリスタルとして、兵士全員の意識をリアルタイムで同期・統率する。……恐怖も、痛みも、個人の判断さえも介在しない、完璧な軍隊を作るんだ」

私は拒絶しようとした。

だが、カシマは私の肩に手を置き、耳元で囁いた。

「断れば、君も『不衛生な異物』として処理される。……この街ではもう、結晶化していない人間は生きられないんだよ」

その手は冷たかった。

かつて同じ釜の飯を食べ、理想を語り合った友人の手は、もう人間のものではなかった。

彼はもう、私という個人の友人ではなく、システムの一部として私を最適化しようとしている。

私は震える手で、チップへと伸ばした。

倫理の融点。

私の心の中に残っていた最後の氷が、熱を持たない白い炎によって、溶け落ちていく音がした。

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