静謐なる開戦

その異変は、爆発音のような劇的な変化ではなく、気温が一度下がるような、肌寒さとして都市に浸透していった。

プラチナ・ホールでの「事故」から一ヶ月。

都市の犯罪率は、驚くべきことにゼロに近づいていた。

だがそれは、人々が道徳的になったからではない。「異物」に対する許容範囲が極限まで狭まり、少しでも秩序を乱す者が、即座に、事務的に社会から排除されるようになったからだ。

役員会議でのことだ。

かつては穏健派として知られ、隣国との対話路線を主張していた議員が、薄い微笑を浮かべてこう発言した。

「国境付近の『汚れ』が目立ちますね。そろそろ、大掃除(クリーニング)が必要ではないでしょうか」

彼の口調には、怒りも憎しみもなかった。

ただ、シャツについたシミを見つけた時のような、純粋な衛生観念だけがあった。

周囲の役員たちも、誰一人として異を唱えない。それどころか、深く納得したように頷き合っている。

「ええ、不衛生です」

「我々の美しい都市には相応しくない」

「消毒しましょう。早急に」

私は背筋が凍る思いだった。

彼らが話しているのは、隣国に住む数百万の人間についてだ。だが、彼らの認識(コンテキスト)の中で、隣国人はもはや人間ではなく、除去すべき「バクテリア」へと変換されていた。

あの夜、導師ヴァルダスから共有された「純粋な正義」は、ブリーチ処理によって対象を失い、最も手近で、最も異質な存在――隣国へと吸着したのだ。


街もまた、変貌していた。

昼休み、私はオフィスの外へ出てみた。

カフェのテラス席では、人々が静かにランチを楽しんでいる。だが、その光景には奇妙な統一感があった。

服装の色味が揃っている。歩くリズムが揃っている。

少しでも派手な格好をした若者や、言葉の訛りが違う外国人労働者が通りかかると、人々は一斉に食事の手を止め、無言で彼らを凝視した。

罵声を浴びせるわけではない。

ただ、何百という「冷ややかな視線」が、一斉に異物に突き刺さるのだ。

その圧力に耐えかねて、若者は逃げるように路地へ消え、労働者は俯いて早足で去っていく。


同調圧力の可視化。

共有された「不寛容」は、都市全体を巨大な一つの免疫システムに変えてしまった。

ここでは「私たち」以外は生存できない。

「素晴らしい秩序だと思わないか?」

いつの間にか、カシマが隣に立っていた。彼は満足げに街を見下ろしている。

「デモもストライキも消えた。意思決定のコストは最小限だ。……これこそが、僕たちが夢見た『争いのない世界』じゃないか?」

「……違う」

私は掠れた声で否定した。

「これは平和じゃない。ただの『排絶』だ。君は気づいていないのか? 来週の国会で可決されようとしている法案の中身を」

『国家衛生維持法』。

それは実質的な、隣国への宣戦布告と同義だった。

だが、その法案には「戦争」という言葉は一度も使われていない。「防疫」「衛生管理」「環境改善」といった、清潔な言葉で埋め尽くされている。

「言葉の問題だよ」

カシマは肩をすくめた。

「国民は戦争なんて望んでいない。彼らが望んでいるのは、この心地よい『清潔さ』を維持することだけだ。そのために、少しばかり外壁を洗浄する必要があるというだけさ」

その時、街頭ビジョンがニュース速報を映し出した。

国境付近の緩衝地帯で、隣国軍との小規模な衝突が発生したという一報だ。

本来なら、不安や恐怖が走るはずのニュースだ。

しかし、カフェの人々は動揺しなかった。

彼らはスマートフォンを取り出し、即座に政府の対応を支持するボタンを押し、そしてまた穏やかな顔でコーヒーを飲み始めた。

彼らの脳内モニターには、いま強烈な「肯定感(いいね)」の快楽物質が流れているはずだ。

「敵を排除することは善である」。

そのシンプルなプログラムが、何百万という市民の脳で同時に発火し、青い照明を輝かせている。

私は空を見上げた。

いつもの鉛色の雲が、今日はやけに低く垂れ込めている。


クズミ。

君がいる国境の空も、こんな色をしているのだろうか。

君が守ろうとした「痛み」や「悲しみ」といったブレーキは、この都市では完全に錆びついてしまった。

今の彼らを止める言葉は、もう辞書には載っていない。

なぜなら彼らは、怒り狂っているのではなく、ただ淡々と、部屋の掃除をするように引き金を引こうとしているのだから。

その翌日。

圧倒的な支持率をもって法案は可決され、我が国の軍隊は「防疫部隊」という名称で、国境を越えた。

熱狂なき行軍。

静謐なる開戦。

それが、私たちが作り出した技術が導いた、地獄への清潔な入り口だった。

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