信仰心の行方

都市の頂点、Q-Nect本社ビルの最上階にある「プラチナ・ホール」は、その夜、荘厳な静寂に包まれていた。

壁一面の窓の向こうには、雨に煙る下界の夜景が広がっているが、この空間には塵ひとつない清潔な空気が満ちている。

集まっているのは、この国の経済と政治を牛耳るトップエリートたちだ。彼らは最高級のスーツやドレスに身を包み、まるでこれから聖餐式を受ける信徒のように、期待と緊張の面持ちで中央のステージを見つめていた。

「今宵のメインディッシュは、至高の『信仰』です」

司会を務めるカシマの声が、完璧に調整された音響システムを通して響く。

「迷いなき心。絶対的な肯定。それは我々がビジネスの世界で最も必要とし、かつ最も手に入りにくいクオリアです。今夜、皆様はその『悟り』を、修行の苦しみなしに手に入れることができます」

ステージの中央には、一人の老人が座していた。

質素だが上質な法衣を纏い、長い白髭を蓄えたその男は、隣国との国境地帯で絶大な支持を集める宗教的指導者――導師ヴァルダスだ。

彼の教団は厳格な戒律で知られているが、同時に、その信徒たちが持つ「揺るぎない結束」と「幸福感」は、常に精神的飢餓状態にある都市の富裕層にとって、垂涎の的だった。

私は舞台袖のモニタリング・ルームで、導師の脳波パターンを監視していた。

画面上の『ランプ』は、目が眩むほど鮮烈な黄金色を放っている。


――すごい。

私は純粋に感嘆していた。

迷い、疑い、不安といったノイズが一切ない。完全に澄み切った「確信」の輝き。これをブリーチして共有すれば、確かに顧客たちは素晴らしい全能感を得られるだろう。

「接続(コネクト)、開始」

カシマの合図とともに、会場の照明が落ち、数百人の参列者の首筋にあるデバイスが一斉に青く光った。

導師の脳内で紡がれた「神秘体験」が、量子ネットワークを通じて拡散される。

その時だった。

私の目の前のモニターに、奇妙な波形が走った。

黄金色の輝きの中心に、鋭く、冷たい「深紅の棘」のようなシグナルが混入していたのだ。

「……なんだ、これは?」

私はキーボードを叩き、その成分を解析した。

それは「攻撃性」や「憎悪」に近いパターンだ。通常であれば、Q-Languageのフィルタがこれを「負の感情」として認識し、即座に除去(ブリーチ)するはずだ。

だが、システムはその深紅の棘を「スルー」していた。

なぜだ? なぜエラーが出ない?

私は戦慄した。

システムは誤作動しているのではない。

導師ヴァルダスにとって、その「攻撃性」は「負の感情」ではなかったのだ。

異教徒を排斥し、自分たちの純粋さを守るための怒り。それは彼の中では「正義」であり、「愛」の一部であり、何よりも「心地よい高揚感」を伴う正の感情(ポジティブ・クオリア)として定義されていたのだ。

――まずい。

私は緊急停止ボタンに手をかけた。

だが、指が止まった。

モニターの中の顧客たちのバイタル数値が、異常なほどの「安定」を示していたからだ。

誰も苦しんでいない。誰も拒絶反応を起こしていない。

それどころか、彼らの脳内では、幸福物質であるドーパミンとエンドルフィンが溢れ出し、至福の時を迎えている。

私は気付いてしまった。

私の作った『ブリーチ』は、導師の感情から「異教徒への憎悪」という具体的な文脈(コンテキスト)だけを綺麗に洗い落としてしまったのだ。

「誰を」憎むのか。「なぜ」排除するのか。

その理由は消滅した。

あとに残ったのは、「自分たち以外は不浄である」という純粋な感覚と、「異物を排除することは快感である」という強烈な本能的衝動の骨組み(フレーム)だけ。

対象を持たない排他性。

理由なき不寛容。

それは特定の敵に向けられる刃ではなく、自分以外のすべてを拒絶する「透明な壁」となって、顧客たちの深層心理にインストールされてしまった。

「……成功だ」

ステージ上のカシマが、満足げに頷いた。

接続が解除され、ホールの照明がゆっくりと戻る。


惨劇は起きなかった。

誰も泡を吹いて倒れなかったし、発狂して叫び出す者もいなかった。

参列者たちは静かに目を開け、互いに顔を見合わせ、そして穏やかに微笑み合った。

その笑顔は、慈愛に満ちているように見えた。

だが、私にはわかってしまった。彼らの瞳の奥に、以前にはなかった「冷たい膜」が張られていることが。

「素晴らしい体験だった……」

最前列にいた政治家が、うっとりとした声で呟いた。

「世界が、これほど鮮明に見えるとは。……今までは、なんと多くの『ノイズ』に囲まれていたことか」

彼は隣にいた給仕の若者が水を注ごうとした瞬間、無意識に、しかし露骨に身体を引いた。

まるで汚物に触れるのを避けるような、生理的な嫌悪の動作。

だが彼の表情は穏やかなままだ。彼自身、自分がなぜそうしたのか理解していない。ただ、直感的に「そいつは自分と同じ領域にいるべき存在ではない」と感じただけだ。

会場全体に、静かな熱狂が広がっていた。

彼らは「選ばれた者」としての連帯感を共有し、同時に、それ以外の者たちへの無自覚で猛烈な拒絶感を獲得していた。

それはウィルスのように、言葉も暴力も介さず、ただ「心の形」を変形させることで感染完了していた。

カシマが舞台袖に戻ってきた。

「完璧だ。見ろ、あの満足そうな顔を。導師への寄付金も莫大な額になるぞ」

「……カシマ、今すぐ彼らの経過観察をした方がいい」

私は乾いた喉で忠告した。

「何の話だ? ノイズはゼロだっただろう」

「ああ、ゼロだったよ。……綺麗になりすぎたんだ」

私はモニターの中で、未だ黄金色に輝き続ける導師の『ランプ』を見つめた。

その光は、もはや聖なる輝きには見えなかった。

それは、周囲のあらゆる色を焼き尽くし、自分と同じ色しか認めない、独善という名の業火だった。

都市の夜景を見下ろす窓ガラスに、私の顔が映っている。

今夜、このプラチナ・ホールから帰ったエリートたちは、それぞれの組織で、それぞれの家庭で、その「透明な刃」を振るい始めるだろう。

異論を認めない政治。異物を許さない経済。

それが「正義」としてまかり通る社会。


事故は起きた。

だが、その被害者が「加害者」へと変貌する性質のものであることに、この時の私はまだ、本当の意味では気づいていなかった。

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