預かり屋

上流から流された水は、必ず低い場所へ溜まる。

この街における「低い場所」とは、旧市街の地下運河沿いに広がる貧困層居住区――通称『沈殿槽』のことだ。

私はカシマとの会食を早々に切り上げ、身分を隠すためのフードを深く被り、その湿った路地を歩いていた。

ここには、上層階(アッパー)のような清潔な漂白の匂いはない。あるのは、錆びた鉄と、カビと、そして煮詰まったような人間の体臭だ。

路地の両脇には、簡易ベッドが並べられた「預かり所(デポジット・ステーション)」が軒を連ねている。

そこでは、うつろな目をした人々――デポジターたちが、腕に太いケーブルを突き刺し、身じろぎもせずに座り込んでいた。

彼らの仕事は単純だ。

富裕層が捨てた「ストレス」や「鬱屈」を、一時的に自分の脳内ストレージにダウンロードして保管する。

『ブリーチ』によって意味を剥ぎ取られたそれらの感情は、彼らにとっては「理由のない重圧」や「正体不明の焦燥感」としてのしかかる。彼らはそれを数時間、あるいは数日間耐え抜き、自然代謝によって消滅させることで、日銭(クレジット)を稼ぐのだ。

「……酷いもんだな」

私は思わず口元を覆った。

ある男は、見えない何かに怯えてガタガタと震え続けている。

ある女は、涙を流すことなく、ただ虚空を見つめて過呼吸を繰り返している。

彼らは、他人の排泄物を脳で濾過するフィルターそのものだった。私が作った技術は、ここでは拷問器具として機能していた。

「お兄さん、顔色が悪いよ。……初めてかい? ここに来るのは」

声をかけてきたのは、薄汚れたエプロンをつけた小柄な少女だった。

彼女は片手に水差しを持ち、震えるデポジターたちの口に水を運んで回っていた。

その瞳だけが、この澱んだ空気の中で、奇妙なほど澄んで見えた。

「ああ……少し、人を探していてね」

私は咄嗟に嘘をついた。

「そう。でも、ここは『探す』場所じゃないよ。『捨てる』場所だ」

少女は少し寂しげに笑い、震える老人の背中をさすった。

「大丈夫だよ、じいちゃん。その『重み』は、じいちゃんのものじゃない。通り過ぎるだけの風だ。……先生の言う通りに呼吸して」

老人は少女の言葉に誘導されるように、ゆっくりと深く息を吐き出した。すると、痙攣していた彼の指先が、僅かに落ち着きを取り戻した。

私はその光景に目を奪われた。

通常、デポジットされた負荷は薬物で散らすのが一般的だ。呼吸法や対話で鎮静化させるなど、非効率的すぎる。

「……君は、カウンセラーか?」

「ううん。私はただの手伝い。やり方を教えてくれたのは『先生』だよ」

「先生?」

「うん。この『沈殿槽』に流れ着いた、変わったお医者さん」

少女は懐かしむような目で、路地の奥にある古びた倉庫の方角を見た。

「みんな、ここへ来る時は『空っぽ』になりたくて来るんだ。自分の心を売って、他人のゴミを詰め込むためにね。でも先生は言うの。『痛みには住所がある』って」

「住所?」

「そう。漂白されて迷子になった痛みに、もう一度『名前』をつけてあげるんだって。そうしないと、その痛みは永遠に脳にこびりついて腐っちゃうから」

心臓が早鐘を打った。

漂白された痛みに、名前をつける。文脈(コンテキスト)を復元する。

それは、Q-Nect社が推し進める「効率化」とは真逆の行為だ。だがそれは、かつて私の親友が何よりも大切にしていた思想そのものだった。

「……その先生は、なんて名前だ?」

「名前は教えてくれない。みんな『クズ鉄屋』とか、ただ『先生』って呼んでる。……いつも難しそうな顔で、青い光のグラフを睨んでるよ。『俺は罪滅ぼしをしてるだけだ』って」

間違いなかった。

クズミだ。

彼はこの地獄のようなスラムに身を沈め、私が垂れ流した汚染物質を、その手で一つ一つ掬い上げ、浄化しようとしているのだ。

最新鋭のオフィスで世界を管理している気になっていた私と、泥の中で人々の痛みに触れている彼。

どちらが真に「人間」を見ているかは、明白だった。

「……会えるかな、その先生に」

私は震える声で尋ねた。

少女は首を横に振った。

「今は無理。国境近くの村に行ってるの。最近、あっちの方から『質の悪いゴミ』がいっぱい流れてくるから、元栓を締めに行くんだって」

「質の悪いゴミ?」

「うん。兵隊さんのゴミだよ。……すごく冷たくて、重いやつ」

私は息を呑んだ。

国境付近。そこは隣国との緊張が高まっている最前線だ。

カシマが言っていた「PTSD治療への転用」――兵士の恐怖心の除去。それが既に実行され、その廃棄物がこのスラムにまで還流しているのだ。

そしてクズミは、その巨大なシステムの歪みを正すために、最も危険な場所へと向かっている。

「……そうか。ありがとう」

私はポケットに入っていた全てのクレジット――高額紙幣の束を、少女の水差しの中に押し込んだ。

「えっ、こんなに!?」

「活動資金にしてくれ。……その先生に会ったら伝えてほしい。『雨はまだ止んでいない』と」

私は少女の返事を待たずに、踵を返した。

これ以上ここに留まれば、自分の欺瞞に押し潰されてしまいそうだった。

背後で、少女が不思議そうに私の背中を見送る気配を感じる。

地上への階段を上りながら、私は強く拳を握りしめた。

クズミは戦っている。

私が作ったこの歪な世界と。

ならば、私も動かなければならない。まだ間に合うはずだ。彼が国境の闇に飲み込まれてしまう前に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る