エモーショナル・マーケット

漂白される街

あれから五年が過ぎたが、この街の雨は止んでいない。

だが、街の「温度」は劇的に変わった。

以前、Q-Nect社、本社ビル四五階から見下ろしたこの街は、燃えていた。

失業率四〇%を超えた貧困層による「パンを寄越せ」という怒号と、火炎瓶の赤黒い炎が、連日連夜スラムを焼き尽くしていた。あの日々は、確かに「熱い暴動」だった。


だが今、眼下に広がる街は、墓場のように静まり返っている。

交差点を埋め尽くす群衆は、一様にうつむき、規則正しく歩いている。彼らの首筋には、無骨な金属製のデバイスが埋め込まれ、一律に「緑色」の光を放っていた。


「……冷たい平和(コールド・ピース)だ」


私は窓ガラスに手をつき、呟いた。

街頭ビジョンには、政府広報のホログラムが淡々と流れている。

『公共安寧維持給付金(デジタル・ベーシックインカム)、今月の支給日は明日です』


『受給条件:Q-Nectデバイスによる精神安定スコア「B」以上の維持』


暴動を止めたのは、警察でも軍隊でもない。たった一つの法案だった。

「Q-Nectを埋め込み、感情を制御(ブリーチ)して『安全な市民』であることを証明すれば、生活費を支給する」

その交換条件が提示された瞬間、あれほど抵抗していた暴徒たちは、我先にと無料の施術所に行列を作った。

プライドで腹は膨れない。彼らは魂の自由を売り、明日のパンを買ったのだ。


「何を難しい顔をしているんだ、CTO」


部屋に入ってきたのはカシマだ。

あの頃よりも少し太り、高そうな葉巻の匂いを纏っている。だが、その瞳には一切の迷いがない。

彼は窓の下、緑色の光の川となって流れる市民たちを見下ろし、満足げに鼻を鳴らした。


「見ろよ、あの秩序。美しいと思わないか? いつぞやは私たちを殺そうとしていた連中が、今や従順な労働力だ」

「……彼らのデバイスは、取り外せない仕様になっているそうだな」

私が尋ねると、カシマは肩をすくめた。


「支給品(ウェルフェア・モデル)だからな。勝手に外されて暴れられたら困る。……それに比べて、我々のモデルは洗練されているだろう?」


カシマは自身の首筋を指差した。

皮膚の下に埋め込まれた極小のチップが、高貴な「青色」に明滅している。それは富裕層の証であり、感情を「消去」される側ではなく、感情を「管理・売買」する側の特権階級(アッパー)であることを示していた。


「今日は何を『入れて』いる?」

「『エグゼクティブ(管理者用)』。今のトレンドだ。これを入れておくと、株価が暴落しようが、下層民が何人野垂れ死のうが、脈拍一つ乱さずに最適な判断ができる」

カシマは笑った。その笑顔は完璧な左右対称を描いていた。


「……君は、これを正義だと思っているのか?」

「正義? これは『救済』だよ」

カシマの声色が、ふと真剣なものに変わった。


「あいつらは飢えていた。自由なんて重荷を背負っていたから、苦しんでいたんだ。僕たちはパンと引き換えに、その重荷を預かってやった。……誰もが幸せになる、完璧な取引(ディール)じゃないか」


夜、カシマに連れられて会員制のサロンへ向かった。

地下にある「クオリア・バー」。

そこは、青い光(アッパー)を持つ者だけが入室を許される空間だった。

照明を落とした店内には静かなジャズが流れ、富裕層たちがソファに深く沈み込んでいる。

彼らは酒を飲む代わりに、高価な「感情」を買っていた。


「ご注文は?」


ソムリエがタブレットを差し出す。

メニューの価格単位は「クレジット」。それは給付金で生きる下層民が一ヶ月かけて稼ぐ額が、ここでは一瞬の快楽として消費されることを意味していた。


『初恋のときめき(ブリーチ済)』……五〇〇クレジット。

『勝利の凱旋(微細ノイズ除去)』……一二〇〇クレジット。


周囲を見渡すと、若い女性が虚空を見つめながら、頬を紅潮させ、恍惚の表情を浮かべていた。彼女は今、自分のものではない恋に落ちている。

その隣では、疲れた顔の投資家が、何かを注入された瞬間に背筋を伸ばし、野獣のようなギラついた目つきに変わった。おそらく『野心』か『征服欲』を買ったのだろう。


「……気色が悪いか?」


カシマがニヤリと笑った。

「だが、これがエコシステムの頂点だ。下層民(緑)が生活のために切り売りした『感情の素材』を漂白し、我々(青)が高値で消費する。……循環型社会の完成形だよ」

「……捨てられた『ゴミ』はどこへ行くんだ?」

私は低い声で尋ねた。

漂白の過程で取り除かれた、不純物としての「苦痛」や「悲しみ」。質量保存の法則に従えば、それらは消えてなくなるわけではない。


「下水処理場さ」


カシマはグラスを傾けながら、事もなげに言った。

「スラムには、給付金だけじゃ足りない連中がごまんといる。彼らは小銭のためなら何でもする。……他人のストレスを脳(タンク)に引き受ける『デポジター(預かり屋)』の仕事でもね」

私は吐き気を覚えた。

この清潔で白い街は、貧困層の脳をゴミ箱にすることで保たれている。


彼らは生きるためにデバイスを埋め込み、さらに生き延びるために、そのデバイスを通じて富裕層の排泄物を飲み込んでいるのだ。

その時、店の奥で誰かが小さな悲鳴を上げた。

見ると、『陶酔』を試していた客の一人が、突然激しく痙攣し、ケーブルを引き抜いていた。


「なんだ……これは! 悲しい! 訳もなく悲しいぞ!」


店員が慌てて駆け寄る。

「申し訳ございません! 抽出元の『緑』の質が悪かったようで……すぐに代わりの品を!」

「ふざけるな! こんな惨めな気分にさせやがって! 俺は金を払ってるんだぞ!」

客は激昂していた。


だが、その光景を見ていた周囲の客たちは、誰一人として眉をひそめていなかった。

彼らはただ、無表情に、あるいは薄気味悪い微笑みを浮かべたまま、その騒動を眺めているだけだ。

彼らの中には、他人のトラブルに対する「心配」も「野次馬根性」もない。自分に関係のないノイズに対して、心を動かすコストをカットしているからだ。


漂白された街。


そこにあるのは、平和などではない。

ただ、経済原理によって魂を去勢された羊たちと、それを貪る狼たちが、互いに無関心なまま共存しているだけの、寒々しい牧場だった。

私は逃げるように席を立った。


地上に出ると、雨はまだ降っていた。

通りを歩く「緑の光」の群れが、亡霊の行進のように見えた。

彼らは雨に濡れても、寒さを感じないように設定されているのだろうか。それとも、寒さを感じる機能すら、今月の家賃のために売ってしまったのだろうか。


肌に当たる雨粒さえも、今の私には、味のしない蒸留水のようにしか感じられなかった。

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