パンドラの受粉

クズミが去ってから、季節は二つ巡った。


地下の研究室から湿気とコーヒーの酸化した匂いは消え、私たちは地上十五階にある、空調の効いた真新しいオフィスへと移っていた。

窓の外には、変わらず雨の都が広がっている。だが、高度と防音ガラスのおかげで、その雨音は遠い世界の出来事のようにしか聞こえない。


私のデスクには、最新鋭のサーバー群が鎮座し、数千、数万という「青い照明」のモニタリングを行っている。

あの忌まわしい事故の後、私はQ-Languageのアルゴリズムを根本から書き換えた。

『ブリーチ(感情漂白)』。

悲鳴を上げた若者たちを救うために私が開発したのは、感覚信号から「コンテキスト(文脈)」を化学的に洗い落とすフィルタリング技術だった。


痛みから「死の予感」という色を抜く。喜びから「過去の思い出」という模様を消す。

そうして漂白されたクオリアは、誰にでも適合し、副作用も起こさない、真っ白で清潔な「純粋信号」へと生まれ変わる。

では、洗い落とされた「意味」はどこへ行くのか?


それは、「熱」を失った冷たい残骸として、元の持ち主の脳内に置き去りにされる。

痛みは消える。だが、「自分が傷ついている」という事実だけが、他人事のようなドライな情報として記憶に残る。それは一種の人工的な解離だ。しかし、カシマたちはそれを「究極の鎮静」と呼んで歓迎した。


「時間だ。行こう」


カシマが私のデスクをノックした。

今日の彼は、仕立ての良いイタリア製のスーツに身を包み、自信に満ちた笑みを浮かべている。だが、そのこめかみには血管が浮き、整髪料で固めた髪の生え際には脂汗が滲んでいた。

今日は、Q-Nectシステムの一般公開日であり、同時に大規模な医療ネットワークへの接続式でもある。


大学の大講堂は、メディアのカメラと、政財界からの招待客で埋め尽くされていた。

フラッシュの明滅。期待と懐疑が入り混じったざわめき。

演台に立ったカシマは、両手を広げて宣言した。


「孤独の世紀は終わりました。私たちは今日、苦痛を共有し、喜びを分かち合うための翼を手に入れたのです」


スクリーンに映し出されたのは、提携先のホスピスで行われている臨床試験の映像だ。

ベッドに横たわる老人が、穏やかな顔で家族と談笑している。その痛みは、別室にいる五人の「ドナー」たちに分散され、微弱な倦怠感として処理されている。

もはや誰も悲鳴を上げない。誰も発狂しない。

私の作った『ブリーチ』は完璧に機能し、痛みはただの数値として、ネットワークの海へと静かに放流されていた。


拍手喝采。


スタンディングオベーションが講堂を揺らす。

その光景を舞台袖から見つめながら、私は奇妙な浮遊感を感じていた。

それは達成感というよりは、巨大なダムの放流ゲートを開けてしまった時のような、取り返しのつかない高揚感だった。


「素晴らしいスピーチだったよ、カシマ君」


祝賀会の会場で、白髪の初老の男が私たちに近づいてきた。

カシマの父親である理事長だ。その背後には、勲章をつけた軍服姿の男や、見るからに裕福そうな投資家たちが控えている。


「君の友人の技術は、実に……『応用力』がある」


理事長は私の肩に手を置き、品定めするような目で言った。

その目は、医療従事者の目ではなかった。新しい油田を発見した商人の目だ。


「先生、例の件ですが……」

軍服の男が割り込む。「PTSD治療への転用、早急に進めていただきたい。兵士から『恐怖』という感情熱量だけを抜き取ることができれば、我が国の国防は劇的に変わる」

「ええ、もちろん。次のフェーズで検証します」


カシマは即答した。彼の中にあったはずの葛藤は、父親と権力者たちからの承認欲求によって塗り潰されていた。

私はシャンパングラスを片手に、会場の隅へと退避した。

煌びやかなシャンデリアの下で、着飾った人々が笑い合い、名刺を交換している。

その光景を見ていると、ふと、彼らの頭上に無数の「花粉」が舞っているような幻覚が見えた。


パンドラの受粉。

私が作った技術は、見えない胞子となって、この会場に、この街に、そして世界中へと拡散していく。


痛みの「意味」を漂白し、純粋な「刺激」だけをやり取りする世界。

それは、人間が悲しむ機能を喪失し、ただの反応装置になることを意味していた。

金を持てる者が、持たざる者から「若さ」や「活力」というクオリアを買い取り、代わりに自身の「老い」や「鬱屈」を押し付ける。そんな市場(マーケット)が誕生するのは、時間の問題だ。


「……質量保存の法則、か」


私はグラスの中の黄金色の液体を見つめ、かつてここにいた男の言葉を反芻した。

クズミ。君は正しかったのかもしれない。

私たちは人間を救ったのではない。人間という存在を、編集可能なデータへと引きずり下ろしたのだ。


だが、もう遅い。


私のポケットの中で、端末が震えた。モニタリング・アプリからの通知だ。

表示された世界地図の上で、青い光の点が一つ、また一つと増殖していく。

それはまるで、夜の地球を覆い尽くそうとする、美しいカビのようでもあった。

私はグラスを飲み干し、カシマの元へと戻った。


これからの時代、私たちは「感情の配管工」として、世界中の欲望と排泄物を管理することになる。

硝子の檻は開かれた。

外には、果てしない荒野と、莫大な富が広がっている。

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