不可視の傷痕

「カシマ、あの患者のバイタルは?」


「安定している。脈拍八〇、血圧正常。……驚いたな。癌性疼痛のレベルが『七』から『二』まで下がっている」

大学病院の特別病棟、その最上階にある無菌室。

ガラス越しに見るベッドの上では、末期の膵臓癌に冒された老婦人が、ここ数ヶ月で初めての穏やかな寝息を立てていた。


彼女の首筋には極細の『Q-Nect』ケーブルが接続され、その先は壁を隔てた隣室へと伸びている。

隣室にいるのは、高額な報酬と引き換えに集められた三人の「ペイン・アクセプター(苦痛受容者)」たちだ。彼らもまた電極をつけ、パイプ椅子に座りながら、鎮痛剤入りの点滴を受けている。


一人の老女が抱える死に際の激痛を、三人の若者が分割して引き受ける。

カシマが主導した最初の臨床試験は、数字の上では大成功だった。


「見たかよ。魔法だ」


白衣を着たカシマが、私の肩を興奮気味に叩いた。

「モルヒネも効かなかった痛みが消えたんだ。彼女は最期の時間を、苦痛に歪んだ顔ではなく、家族への笑顔と共に過ごせる」

「ああ……理論通りだ」

私もまた、手元のタブレットに表示される「青い照明」の分散グラフを見て、安堵していた。


老婦人の脳内で暴れまわっていた赤黒い痛みのスパイクは、Q-Languageによって滑らかに整地され、三人の受容者へと薄く広く分配されている。

総量は変わらない。だが、耐えられるレベルまで希釈されれば、それはただの「不快感」に格下げされる。


「……おい、受容者(アクセプター)の方を見てみろ」


低い声がした。

部屋の隅、影に溶け込むように立っていたクズミだ。彼は白衣を着ることを拒み、薄汚れたシャツのまま腕を組んでいる。

私は彼の視線を追って、マジックミラー越しに隣室を覗き込んだ。

そこには、奇妙な光景があった。

三人の若者は、確かに鎮痛剤の効果もあって落ち着いているように見える。だが、彼らは一様に虚空を見つめ、何もない空間を手で払うような仕草を繰り返していた。

まるで、目に見えない蜘蛛の巣が顔に張り付いているかのように。


「痛覚信号は遮断されているはずだ。麻酔科医も立ち会っている」


カシマが不機嫌そうに言うと、クズミは鼻で笑った。

「カシマ、俺はずっと考えてたんだ。『痛み』ってのは、ただの電気信号か?」

「信号だ。それ以外に何がある」

「『意味』だよ」

クズミはガラスに指を這わせた。


「俺たちの脳は、痛みを『危険信号』として処理する。だが、理由のない痛みを他人の脳から流し込まれた時、脳はどう解釈する? ……そいつらは今、混乱しているんだ。身体は痛くないのに、魂が『ここから逃げろ』と叫んでる」


その時だった。

隣室の一人が、突然悲鳴を上げ、自分の首を掻きむしり始めた。

「暗い! 暗いよ! やめてくれ!」

警報が鳴り響く。

彼は痛みではなく、老婦人が深層心理で抱えていた「死への根源的な恐怖」までもを受信してしまったのだ。

痛みの分配はできても、その痛みに付随する「絶望」というコンテキスト(文脈)までは濾過できていなかった。


「接続解除! カットしろ!」


私が叫び、技師が緊急停止ボタンを叩く。

若者は泡を吹いて倒れ込み、スタッフたちが慌ただしく駆け寄っていく。

騒然とする現場を見下ろしながら、クズミは静かに呟いた。


「質量保存の法則ってやつだな。……悲しみも痛みも、消えたりしない。誰かが必ず代償を払う。見ろよ、あいつの眼を」


担架で運ばれていく若者の眼は、焦点が定まらず、恐怖に大きく見開かれていた。

その眼球の奥には、彼自身の人生には存在しなかったはずの、死にゆく者の暗い影が焼き付いていた。


「これでも『医療』か? カシマ」


「……事故だ。パラメータの調整ミスに過ぎない」

カシマは顔面蒼白になりながらも、決して認めようとはしなかった。

「次の治験ではフィルタを強化する。……必要な犠牲なんだ、これは」

私は震える手でタブレットを握りしめていた。

モニターの中では、老婦人の「青い照明」は穏やかに凪いでいる。だがその代償として、隣室では三つの照明が、乱雑なリズムで狂ったように明滅していた。


不可視の傷痕。

それは肉体ではなく、彼らの「わたくし」という現象そのものに刻まれてしまったのだ。


「俺は降りるぞ」


クズミが背を向けた。

「これ以上付き合ってたら、俺の『俺』が消えちまう気がするんだ」

「待てよクズミ!」

私が呼び止める声にも、彼は振り返らなかった。


自動ドアが閉まるその瞬間、彼が最後に見せた横顔は、泥の中に沈んでいく錆びた鉄のように、痛々しいほどに頼りなく見えた。

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