第8話 デジタルの中の人間味
声が出たあと、佐藤正治は、しばらく何も話さなかった。
出せると分かった途端、
今度は「使っていいのか」が分からなくなったのだ。
ありがとう。
すみません。
それだけの言葉でさえ、
胸の奥で慎重に転がしてからでないと、口にできなかった。
言葉は、便利すぎる。
一度、使い方を間違えると、
相手の中に、消えない形で残ってしまう。
佐藤は、それを身をもって知ってしまった。
禅寺を離れる朝、
世話になった僧に頭を下げる。
「……お世話に、なりました」
声は小さく、掠れていたが、
僧は何も言わず、静かに頷いた。
それで十分だった。
山を下り、再び人のいる場所へ戻る。
雑音が増え、看板が増え、
スマホの電波も、当たり前のように戻ってきた。
ポケットの中で、端末が微かに震える。
通知。
画面を開くと、
以前登録したまま放置していたSNSのアイコンが、
久しぶりに光っていた。
——ここに、何を書けばいい。
言葉を使う場所だ。
声を出さずに、
それでも誰かに届く。
佐藤は、宿の窓際に腰を下ろし、
夜明け前の空を眺めた。
薄い群青。
まだ朝とは呼べない色。
スマホを構え、
ただ一枚、写真を撮る。
風景を切り取るつもりだったが、
写ったのは、
自分の今の心境そのものだった。
画面の下に、文字を打つ。
最初の投稿は、三行だった。
写真もない。
飾り気もない。
ただ、夜明け前の空を撮った一枚を添えて、
佐藤正治は、スマホの画面をじっと見つめていた。
——これで、いいのか。
言葉は短い。
考え抜いた末に削られて、ほとんど骨だけになっている。
『旅の途中。
うまく話せなくなったので、静かな場所にいます。
今日は掃除をしました』
投稿ボタンを押すまでに、十分以上かかった。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
それでも、消さずに押した。
画面が切り替わる。
何も起きない。
——やはり、こんなものか。
佐藤はスマホを伏せ、湯のみを手に取った。
少しして、画面が震えた。
通知。
恐る恐る、もう一度スマホを見る。
「いいね」が、一つ。
見知らぬ名前だった。
次に、コメント。
『無理しないでください。
掃除、おつかれさまです』
短い。
でも、そこには評価も、皮肉もなかった。
ただの、気遣い。
佐藤の胸に、静かな驚きが走った。
——返して、いいのだろうか。
指が止まる。
だが、あの子どもに言った「ありがとう」を思い出す。
『ありがとうございます』
それだけを打って、送った。
それから、少しずつ、投稿が増えた。
薪割りの写真。
朝の境内。
失敗して割れた茶碗。
言葉は、いつも短い。
『今日は、うまくできませんでした』
『分からないことが多いです』
『静かでした』
不思議なことに、
それらに反応がついた。
『それでいいと思います』
『分からないって言えるの、すごいです』
『なんか、落ち着きます』
若者らしい言葉遣い。
絵文字も多い。
正直、意味が分からないものもあった。
だが、そこにある感情は、分かった。
——ちゃんと、人がいる。
画面の向こうに、
生きている誰かがいて、
今の自分を見ている。
佐藤は、ふと思った。
学校で、生徒のスマホを見ていたとき。
自分は、これを「問題」だとしか見ていなかった。
集中力を奪うもの。
規律を乱すもの。
指導すべき対象。
だが、今なら分かる。
ここは、
言葉を持て余した人間が、
それでも誰かと繋がろうとする場所なのだ。
ある夜、佐藤は少し長めの文章を書いた。
『昔、教える仕事をしていました。
正しい言葉を使っているつもりで、
誰かを傷つけていたかもしれません。
今は、言葉を勉強し直しています』
送信したあと、佐藤正治はスマホを伏せた。
これ以上、画面を見ていられなかった。
——これは、言い訳ではないか。
——同情を誘っているだけではないか。
そんな考えが、頭の中を巡る。
だが、消すことはしなかった。
消してしまえば、
また「なかったこと」にしてしまう気がしたからだ。
しばらくして、
ポケットの中で、端末が微かに震えた。
一件。
また一件。
通知音が、短い間隔で続く。
恐る恐る、画面を開く。
『気づけたなら、もう十分だと思います』
評価でも、赦しでもない。
ただの感想。
次のコメント。
『ちゃんと反省してる人、嫌いじゃない』
その一文に、佐藤は息を止めた。
嫌いじゃない。
許すでも、持ち上げるでもない。
だが、拒絶されてもいない。
さらに、続く。
『その視点、必要です』
『自分の先生にも、こういう人いてほしかった』
『間違えたって言える大人、貴重』
佐藤は、スマホを胸に抱えた。
鼓動が、少しだけ速くなっている。
不思議だった。
これまで、
怒鳴られたことはある。
反発されたこともある。
黙られたことも、無視されたこともある。
だが、
こうして「受け止められる」経験は、
ほとんどなかった。
自分は、いつも答えを用意してきた。
正解。
方針。
改善案。
相手が何を感じているかより、
どう変えればいいかばかりを考えていた。
だが、ここには違う空気があった。
誰も、
「では、どうするべきか」などと聞いてこない。
説教も、指示も、結論もない。
あるのは、
それぞれが、それぞれの場所から返した、
率直な言葉だけだ。
——人は、説得されたいんじゃない。
——理解されたいだけなんだ。
その考えが、
胸の奥に、静かに落ちていく。
佐藤は、ふと、
過去の教室を思い出した。
硬い椅子。
整列した机。
正面に立つ、自分。
生徒たちは、
本当に納得していただろうか。
それとも、
ただ嵐が過ぎるのを待っていただけなのか。
佐藤は、スマホの画面を見つめる。
ここでは、
誰も黙らされていない。
反論してもいい。
離れてもいい。
返事をしなくてもいい。
だからこそ、
言葉が、言葉として残る。
佐藤正治は、初めて実感した。
理解とは、相手を変えることではない。
相手が、そのまま存在できる場所を作ることなのだと。
スマホが、また小さく震える。
『今日の投稿、少し救われました』
佐藤は、画面に指を置き、
ゆっくりと文字を打つ。
『こちらこそ、ありがとうございます』
それだけで、十分だった。
正しいことを言う必要はない。
立派な結論も、いらない。
今は、ただ、
ここにいる人間として、
言葉を交わしていけばいい。
佐藤正治は、
画面の向こうにいる「人間」を、
初めて、はっきりと感じていた。
その夜、佐藤は久しぶりに、
少しだけ長く眠れた。
デジタルの中に、
冷たい世界が広がっていると思っていた。
だが実際は、
そこにも、不器用で、優しい人間がいた。
佐藤正治は、
スマホの画面を閉じながら、思う。
——教える前に、
——正す前に、
——否定する前に。
人は、もうそこにいる。
それを知ったことが、
この旅で得た、確かな一歩だった。
通知は、少しずつ増えていった。
爆発的ではない。
だが、途切れない。
佐藤の投稿は、どれも地味だった。
役に立つ情報もなければ、派手な主張もない。
それでも、人は立ち止まった。
『分からないって言えるの、すごいと思う』
『昔の先生に、これ読ませたい』
『ちゃんと考えてるの、伝わります』
佐藤は、画面を閉じて、しばらく動けなかった。
——伝わる。
その言葉が、胸の奥で反響する。
自分は、これまで
「伝えたつもり」で生きてきた。
声を張り、
正論を並べ、
相手が黙れば「理解した」と判断した。
だが今は違う。
相手の反応は、
従属でも、沈黙でもない。
それぞれが、それぞれの言葉で、
自分の受け取り方を返してくる。
佐藤は、初めて知った。
伝わるというのは、相手に委ねることなのだと。
夜、宿の小さな机で、
佐藤は次の投稿を書こうとして、手を止めた。
何を書きたいのか、分からなかった。
いや、違う。
書きたいことは、あった。
だが、それを言葉にする資格が、
自分にあるのか分からなかった。
——反省している。
——学び直している。
——変わろうとしている。
それは全部、本当だ。
だが同時に、
取り返しのつかないことをした人間でもある。
佐藤は、画面を閉じ、
窓の外を見る。
夜の街は、静かだった。
人の気配はあるのに、
誰とも直接、顔を合わせていない。
それでも、孤独ではなかった。
不思議な感覚だった。
スマホが震える。
通知とは、少し違う表示。
未登録の番号。
佐藤は、一瞬、指を止めた。
嫌な予感、というほど強くはない。
だが、胸の奥が、わずかに固くなる。
通話ではない。
メッセージ。
『佐藤正治様
教育委員会の◯◯です。
お時間あるときに、ご連絡いただけますか』
短い文面だった。
丁寧で、事務的で、
感情が一切読み取れない。
佐藤は、スマホを置いた。
SNSの画面には、
さっきの投稿への新しいコメントが表示されている。
『今日も読んでます』
『無理しないで』
指先が、微かに震えた。
——現実は、待ってくれない。
旅の中で、
自分なりに積み上げてきたもの。
沈黙。
理解。
聴く姿勢。
それらが、
本当に試される時が、近づいている。
佐藤正治は、
メッセージ画面を閉じずに、
しばらく眺め続けた。
逃げたいとは、思わなかった。
だが、
何が来るのかは、分かっていた。
——自分が、壊してきた側だという現実。
それを突きつけられる準備が、
ようやく、少しだけ整った。
佐藤は、深く息を吸い、
返信を打つ。
『分かりました。
明日、ご連絡します』
送信。
画面が静かになる。
その沈黙の中で、
佐藤正治は、確信していた。
次に知る真実は、
これまでとは比べものにならないほど、
痛い。
それでも。
もう、目を逸らすことはしない。
それができる人間に、
自分は、ようやくなり始めているのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます