第9話 犯人の正体
それは、裏切りではなかった。
だが、佐藤正治にとっては、
裏切りよりもずっと重いものだった。
理解してしまう――という地獄。
もし、これが数か月前だったなら。
もし、謹慎に入る前の自分だったなら。
展開は、あまりにも単純だったはずだ。
誰だ。
なぜ黙って言わなかった。
なぜ直接、俺に言わなかった。
信頼していた。
期待していた。
育ててきたつもりだった。
――裏切り者。
そう断じて、
怒鳴って、
論破して、
「正しさ」で押し潰して、終わりだった。
佐藤正治は、そういう教師だった。
正論を武器にすることを、
導くことだと信じていた。
声の大きさを、
責任感の強さだと思っていた。
沈黙を、
納得だと勘違いしていた。
だが、今は違う。
違ってしまった。
第6話で、彼は知ってしまった。
「善意」は、時に人を救うが、
同じだけの確率で、人を殺す。
良かれと思った一言が、
正しいと思い込んだ指導が、
誰かの人生を、静かに壊すことを。
第7話で、彼は体験してしまった。
言葉を失うほど、
自分がどれだけ他人を押し潰してきたかを。
教えるという名目で、
指示するという形で、
逃げ場を奪ってきたことを。
第8話で、ようやく気づいた。
言葉は、勝つための道具じゃない。
正すための刃でもない。
言葉は、
誰かが息をしていい場所を作るものだ。
だから。
だからこそ、第9話の佐藤は――
怒れなかった。
怒りが湧かないのではない。
湧き上がる前に、理解が追いついてしまったのだ。
内部告発をしたのが、
自分が最も信頼し、
最も期待し、
「将来は大丈夫だ」と思っていた若手教師だと知った瞬間。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
――ああ。
――この人は、俺を見ていたんだ。
俺の背中を。
俺の言葉を。
俺のやり方を。
そして、
それを「正しいもの」として、
引き継ぎかけていた。
だからこそ、
告発したのだ。
怒りからじゃない。
正義感からでもない。
壊れる前に、止まりたかった。
誰かを壊す側に回る前に、逃げたかった。
それが、
どれほどの覚悟を要する行為だったか。
佐藤には、分かってしまった。
かつての自分なら、
決して分からなかったことが。
怒れないというのは、
許したということじゃない。
許しよりも、
もっと残酷な場所に立ってしまったということだ。
佐藤正治は、初めて知った。
敵を失うことよりも、
理解してしまうことの方が、
ずっと人を追い詰めるのだということを。
この話で
彼が「変わった」証明ではない。
もう、
元には戻れなくなったという宣告だった。
正しかった過去にも、
胸を張れる現在にも、
簡単には行けない。
その狭間に、
佐藤正治は、立ち尽くしていた。
そして物語は、
ここから「責任」の形を変えていく。
怒鳴らない責任。
黙らない責任。
聴く責任。
次の一歩は、
復帰ではない。
対話だ。
——ここからが、本当の教壇だ。
謹慎解除が近づいていた。
教育委員会からの連絡は、終始、事務的だった。
声には感情がなく、言葉は必要最低限で、
そこには「人」の温度がほとんどなかった。
それが、かえって現実味を増していた。
「調査は一区切りです。処分内容も確定しました」
佐藤正治は、電話を耳に当てたまま、頷いた。
返事は短く、声も低い。
もう、抗弁する気力はなかった。
「……最後に、一点だけ」
一拍。
ほんのわずかな沈黙。
だがその間に、
佐藤の中で、嫌な予感が膨らんでいく。
「内部告発者についてですが」
言葉が、空気を切る。
「あなたが最も高く評価し、将来を期待していた――
若手教師でした」
一瞬、
頭が真っ白になった。
音が、消えた。
聞き返すことも、
言葉を探すことも、
できなかった。
脳裏に、勝手に映像が流れ込んでくる。
誰よりも真面目だった。
誰よりも早く出勤し、
誰よりも遅くまで残っていた。
指導の仕方も、
声の張り方も、
生徒の叱り方も。
――自分のやり方を、そっくりそのまま真似していた。
「先生みたいになりたいです」
そう言って、
少し照れたように笑った背中。
あの時、佐藤は誇らしかった。
自分の教育が、
次の世代に受け継がれていくのだと。
だが。
そこで、
理解が追いついてしまった。
――ああ。
――あれは、俺のコピーだったんだ。
理想を託した後継者ではない。
価値観を疑わずに引き継いだ、複製品。
そして、
もっと残酷な理解が、遅れてやってきた。
この告発は、
攻撃じゃない。
復讐でも、
告げ口でも、
正義の主張でもない。
逃げ道のない末の、
最後の選択だった。
もし、声を上げなければ。
彼は、そのまま進んでいた。
自分と同じ教師に。
誰かを壊す側に。
それを「正しい指導」だと信じたまま。
その未来を、
止めるために。
彼は、
「尊敬していた人」を壊す覚悟をしたのだ。
佐藤正治は、怒れなかった。
怒りは、
理解に飲み込まれていた。
責める言葉も、
正論も、
もう、出てこなかった。
代わりに、
第6話で聞いた、あの声が蘇る。
『先生、正しかったかもしれない。
でも、僕は死にました』
若手教師も、同じだったのだ。
心を殺される前に、
立ち止まっただけ。
自分が、
誰かを殺す側に回る前に。
佐藤正治は、
ゆっくりと目を閉じた。
この現実を、
否定する道はない。
過去を肯定して前に進む道も、
もう、残されていない。
残っているのは、ただ一つ。
自分が作ったこの連鎖を、
ここで終わらせる責任。
それだけだった。
——怒れないということは、
許したということじゃない。
もう、
逃げられない場所に立ってしまったということだ。
物語は、
ここで確実に、次の段階へ進む。
「加害者」と「被害者」という単純な構図を越えて。
佐藤正治は、
自分の背中が、誰かの人生を左右する重さを、
初めて本当の意味で、知ったのだった。
電話を切ったあと、
佐藤正治は、しばらくその場から動けなかった。
怒りはなかった。
悔しさも、自己憐憫も、もう湧いてこない。
代わりに胸の奥にあったのは、
奇妙なほど静かな感覚だった。
——告発されて、よかった。
その言葉が、
驚くほど自然に浮かんだことに、
佐藤自身が一瞬、戸惑う。
それは、
自分が否定されたからではない。
裁かれたからでも、
過去が無意味になったからでもない。
連鎖が、止まったのだ。
自分では止められなかったものを、
次の世代が止めた。
「正しい指導」という名で続いてきた暴力を、
尊敬と恐怖の中で受け継がれるはずだった価値観を、
彼は、そこで断ち切った。
その事実が、
胸の奥で、重く、しかし確かに響いていた。
もしかしたら。
それが、
教師としての最後の役割だったのかもしれない。
教えることでも、
導くことでも、
正すことでもなく。
「間違いを、ここで終わらせること」。
佐藤正治は、ゆっくりと息を吐いた。
過去は、肯定できない。
もう、誇れない。
だが、
無意味ではなかった。
自分の失敗が、
誰かの踏みとどまる理由になったのなら。
それだけで、
未来は、ほんの少しだけ違う形になる。
佐藤は、スマホを手に取った。
若手教師の顔が、脳裏に浮かぶ。
真面目で、不器用で、
かつての自分と、驚くほど似ていた青年。
会おう。
謝るためじゃない。
許しを乞うためでもない。
説得するためでも、
理解させるためでもない。
ただ、
聴くために。
彼が、何を恐れ、
何に追い詰められ、
どんな覚悟で声を上げたのか。
それを、
初めて「上に立つ人間」としてではなく、
一人の人間として、受け止めるために。
佐藤正治は立ち上がった。
もう、教壇には立てないかもしれない。
だが、
向き合うことから逃げる理由も、
なくなっていた。
こうして、
物語は次へ進む。
裁きの後の、
静かな実習へ。
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