第7話 言葉を捨てる
異変は、ある朝、静かに始まった。
宿の食堂で、佐藤正治は味噌汁を前に座っていた。
湯気が立ち上り、いつも通りの匂いがする。
なのに、箸が動かなかった。
頭の中で、言葉が渋滞していた。
——いただきます。
——ありがとうございます。
——すみません。
どれも、口にすれば済む言葉だ。
三十年以上、何千回も使ってきた。
だが、喉の奥で引っかかる。
出していいのか、分からなかった。
結局、佐藤は何も言わずに頭を下げ、黙って食べ始めた。
誰も気に留めなかった。
その「何も起きなかった」ことが、妙に重く感じられた。
昼、道を歩いていて、観光客に道を聞かれた。
口を開きかけて、止まる。
正確な案内ができるだろうか。
間違えたらどうする。
自分の言葉で、人を困らせないか。
そんな考えが、瞬時に頭を占領した。
「……」
結局、曖昧に首を振り、身振りだけで示した。
相手は礼を言って去っていったが、
佐藤の胸には、薄い汗が残った。
夜、布団に入る。
天井を見つめながら、あの手紙の一文が、何度も浮かんだ。
——先生に殴られたことで、心が死んだ。
あのとき、自分は何と言っただろう。
正しさ。
覚悟。
将来のため。
言葉は、山ほどあった。
だが、そのどれもが、
相手の心を見てはいなかった。
佐藤は、布団の中で、ゆっくりと息を吐く。
——もう、言葉を信じられない。
そう思った瞬間、
喉の奥が、きゅっと縮んだ。
翌朝。
宿の主人に声をかけようとして、
佐藤は初めて「出ない」とはっきり分かった。
声が、出ない。
痛みはない。
苦しさもない。
ただ、空っぽだった。
出そうとすればするほど、
言葉が意味を失っていく感覚。
——これでいい。
なぜか、そう思えた。
佐藤正治は、荷物をまとめ、
人の少ない方へと歩き出した。
言葉を使わなくて済む場所。
声を持たなくても許される場所。
そうして辿り着いたのが、
山間の、静かな禅寺だった。
ここから、
彼の「沈黙の旅」が始まる。
声が、出なくなった。
正確に言えば、出そうとすると喉の奥で止まる。
言葉が形になる前に、意味だけが崩れてしまう感覚だった。
佐藤正治は、それを「疲れ」のせいだと思おうとした。
だが違うと、すぐに分かった。
言葉が、信用できなくなっていた。
あれほど使ってきたもの。
信じてきたもの。
人を導くための道具だと疑わなかったもの。
それが、誰かの人生を壊していた。
そんなものを、
どうやって口にできるというのか。
佐藤は、旅の途中で立ち寄った山間の禅寺に、数日だけ身を寄せることになった。
理由は単純だった。
「静かだから」
それ以上の説明を、彼はできなかった。
寺では、余計なことを聞かれなかった。
年齢も、職業も、過去も。
あるのは、
「ここにいるなら、これをやってください」
それだけだった。
佐藤は、黙って頷いた。
朝は掃き掃除。
昼は薪割り。
夕方は畑仕事。
指示は最小限で、細かい説明はない。
やり方が分からなければ、誰かの動きを見るしかなかった。
最初は、戸惑った。
——指示しないのか。
——注意しないのか。
——間違っていても、止めないのか。
身体が、勝手に昔の癖を思い出そうとする。
だが、口を開こうとすると、
やはり声は出なかった。
代わりに、目を向ける。
年下の僧の手元。
黙々と作業する村人の背中。
失敗しても、誰も責めない空気。
佐藤は、気づき始めた。
ここでは、
「言わなくても伝わる」ことが、確かに存在している。
急がないこと。
無理をしないこと。
困ったら、手を止めること。
全部、言葉じゃなく、動きで示されていた。
ある日、薪を運んでいる最中に、佐藤は手を滑らせた。
束が崩れ、地面に落ちる。
反射的に、身構えた。
——叱られる。
だが、誰も何も言わなかった。
近くにいた若い僧が、ただ一言。
「……大丈夫ですか」
それだけだった。
責めも、評価も、正解もない。
ただ、存在を気にかける言葉。
その瞬間、佐藤の胸の奥で、何かがほどけた。
——ああ。
自分は、
これを一度もやってこなかったのだ。
正しいかどうか。
できているかどうか。
将来のためになるかどうか。
いつも、そればかりを見て、
目の前の人間を見ていなかった。
夜、座禅の時間。
言葉を使わない空間で、
佐藤は自分の呼吸の音を初めて意識した。
こんなにも、うるさかったのか。
こんなにも、浅かったのか。
静けさの中で、思う。
——教える前に。
——正す前に。
——話す前に。
まず、聴かなければならなかった。
相手の言葉を。
相手の沈黙を。
相手が、言葉にできない部分を。
佐藤正治は、
ここで初めて「背中を見せる」という意味を知った。
導くために立つのではない。
評価するために見るのでもない。
ただ、同じ場所で、同じことをする。
それだけで、人は伝わることがある。
声は、まだ戻らなかった。
だが、
もう焦りはなかった。
言葉を捨てたこの時間こそが、
自分に必要な、最初の授業だったから。
最終日の朝、佐藤はいつものように境内を掃いていた。
落ち葉は少なく、風もない。
箒の音だけが、一定のリズムで続く。
作業を終え、道具を片付けようとしたとき、
背後から小さな足音がした。
禅寺に滞在していた、近所の子どもだった。
まだ言葉の拙い年頃で、いつも境内を走り回っている。
子どもは、佐藤の足元に落ちていた一枚の葉を拾い上げ、
不思議そうに見つめてから、差し出した。
「……これ」
佐藤は、一瞬、固まった。
言葉を返そうとして、
いつものように、何も出ないはずだった。
だが。
「……ありがとう」
声が、出た。
ひどく小さく、掠れていて、
自分の耳に届いたのかどうかも分からないほど。
それでも、確かに、声だった。
子どもはにこりと笑い、
何事もなかったように走り去っていく。
佐藤は、その場に立ち尽くした。
喉に、痛みはない。
奇跡のような感覚もない。
ただ、胸の奥が、静かに温かかった。
——言葉は、使うためのものじゃない。
——伝えるためのものだ。
そんな当たり前のことを、
今さらのように思う。
声は、完全には戻っていなかった。
長い文章は、まだ無理だろう。
だが、それでいい。
佐藤正治は、初めて
「話せること」よりも
「黙れること」を大事にしたまま、
言葉を取り戻した。
箒を持ち直し、もう一度、境内を掃く。
風が、少しだけ吹いた。
それは、
彼の中で何かが再び動き始めた合図のようだった。
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