第6話 かつての「正解」からの手紙

その電話は、午前中だった。


 安宿の小さな部屋。

 窓の外では、知らない街の日常が、何事もなかったように流れている。


 スマホが震えた。


 表示された番号を見て、佐藤正治は一瞬、指を止めた。


 ——教育委員会。


 出るべきか、迷ったのは一秒ほどだった。


「……佐藤です」


『あ、佐藤先生。お久しぶりです』


 事務的で、柔らかすぎる声。

 責めるでも、労わるでもない。


 その距離感が、逆に胸に引っかかった。


『少し、その後の様子を伺いたくて』


「……はい」


 “どうですか”という言葉が、

 そのまま空気の中に置かれる。


 どう、とは何を指しているのか。

 旅か。

 反省か。

 それとも——戻る気があるか、か。


 佐藤は、すぐに答えなかった。


「……考えています」


 それ以上、言えなかった。


『そうですか』


 声は、変わらない。


『実はもう一つ、先生にお伝えしておいたほうがいいことがありまして』


 佐藤の背中に、微かな緊張が走った。


『先生宛てに、手紙が届いています』


「……手紙?」


『はい。少し前に』


 一瞬、心当たりを探る。

 だが、浮かんでくる顔はなかった。


『こちらで開封はしていません』


 当然だ、と分かっていても、その一言に救われる。


『差出人は……

 二十年ほど前の、先生の教え子です』


 言葉が、耳の奥で止まった。


 二十年。


 教え子。


 佐藤の中で、時間が逆流する。


 あの教室。

 あの廊下。

 あの、怒鳴り声。


『先生がご不在でしたので、

 こちらで保管していたのですが……』


 事務的な説明が続く。


 だが、佐藤の意識は、もう別の場所にあった。


「……その手紙は」


 声が、わずかに掠れた。


「……どう、したらいいでしょうか」


『先生がご希望されるなら、

 今いるご住所へ転送できます』


 転送。


 その言葉が、妙に重かった。


 過去が、

 包装され、

 丁寧に、

 今の自分の元へ送られてくる。


「……お願いします」


 答えは、考える前に出ていた。


『承知しました』


 電話は、それで終わった。


 切れた画面を見つめたまま、

 佐藤は、しばらく動けなかった。


 手紙。


 二十年前の、教え子。


 胸の奥で、

 何かが、静かに軋んだ。


 ——あの頃の自分は、正しかった。


 そう言い切るには、

 今の佐藤は、もう遠くまで来てしまっていた。


 数日後、その封筒は届く。


 そして佐藤正治は、

 自分が“更生させた”と信じていた過去と、

 真正面から向き合うことになる。


 差出人の名前を見た瞬間、佐藤正治は指を止めた。


 ——見覚えが、あった。


 いや、違う。

 忘れたことなど、一度もなかった。


 かつて問題行動を繰り返し、

 校内でも、家庭でも手を焼いていた生徒。


 何度も呼び出し、

 何度も叱り、

 最後には——


 殴った。


 それで終わった話だと、思っていた。


 手紙は短かった。


『先生に、一度会って話がしたいです』


 理由は、書かれていない。


 佐藤は、しばらく封筒を見つめたまま動けなかった。


 ——会う資格が、あるのか。


 だが、考えるより先に、身体は動いていた。


 約束の場所は、地方都市の喫茶店だった。

 チェーン店ではない、小さな店。


 午後の客は少なく、

 時計の音がやけに大きく聞こえる。


 先に来ていた男は、

 佐藤が知っている「教え子」とは、別人のようだった。


 年齢は三十代後半。

 痩せていて、姿勢が少し前に傾いている。


「……佐藤先生」


 声をかけられ、佐藤は立ち上がった。


「……久しぶりだな」


 それ以上の言葉が、出てこない。


 二人は向かい合って座った。


 沈黙が、長かった。


 先に口を開いたのは、元教え子のほうだった。


「先生は……

 俺のこと、覚えてますか」


 佐藤は、ゆっくりと頷いた。


「覚えている」


 それは、嘘ではなかった。


「……そうですか」


 元教え子は、少しだけ目を伏せた。


「俺は、ずっと覚えてました」


 コーヒーが運ばれてくる。

 湯気が、二人の間に立ち上る。


「先生、あの時のこと……

 どう思ってますか」


 佐藤の喉が、きゅっと縮んだ。


「あの時、君は——」


 言いかけて、止めた。


 弁解になると、分かっていた。


 代わりに、正直に言った。


「……正しいことをしたと、思っていた」


 元教え子は、微かに笑った。


 だが、それは喜びの笑みではなかった。


「ですよね」


 そして、続ける。


「あの時、先生に殴られた瞬間……

 俺の中で、何かが終わりました」


 佐藤は、息を呑んだ。


「悪いことをしたから殴られた、

 って頭では分かってました」


 元教え子の声は、静かだった。


「でも……心は、違った」


 テーブルの上で、指が絡む。


「あ、俺は

 話を聞いてもらえる存在じゃないんだ、って」


 佐藤の胸が、締め付けられる。


「殴られた痛みより、

 その後の方が、ずっと残ってます」


 元教え子は、視線を上げた。


「誰かに怒られるたび、

 身体が固まるんです」


「……」


「正しいこと言われると、

 頭が真っ白になる」


 それは、この前に聞いた言葉と、重なった。


「俺、ちゃんと生きてますよ」


 元教え子は、そう言ってから、少し間を置いた。


「でも……

 自分の人生を、

 “自分のもの”って感じられない」


 佐藤は、何も言えなかった。


 かつての自分なら、

 「それでも立ち直っただろう」と言ったかもしれない。


 だが、今は——

 その言葉が、どれほど残酷か分かっていた。


「先生」


 元教え子は、深く息を吸った。


「責めたいわけじゃないんです」


 佐藤は、顔を上げた。


「ただ……

 あれが“正解”だったのか、

 先生自身に考えてほしかった」


 その一言が、

 胸の奥に、真っ直ぐ突き刺さった。


 正解。


 佐藤が、人生で最も信じてきた言葉。


 だが今、その正解は——

 一人の人間の心を、静かに殺していた。


「……すまなかった」


 佐藤は、ようやくそう言った。


 謝罪は、軽かった。

 取り返しがつく言葉ではないと、分かっていた。


 それでも、言わずにはいられなかった。


 元教え子は、首を振った。


「謝られたいわけじゃないんです」


 そして、少しだけ笑った。


「先生が、今も考えてるなら……

 それで、いいです」


 二人は、店を出た。


 夕暮れの街で、別れ際。


「先生」


 元教え子は、振り返って言った。


「俺にとって、

 あの日は、地獄でした」


 佐藤は、黙って頷いた。


「でも……

 先生が今、ここまで来たなら」


 元教え子は、最後にこう言った。


「……誰かの地獄は、

 少し減るかもしれない」


 その言葉を背中に受け、

 佐藤は、一人歩き出した。


 夜風が、冷たい。


 ——正解は、人を救うとは限らない。


 ——良かれと思ったことが、

 ——一生を縛ることもある。


 佐藤正治は、その夜、空を見上げた。


 もう、胸を張れなかった。

 だが、目を逸らすことも、できなかった。


 この重さを抱えたまま、

 進むしかない。


 それが、

 遅すぎた再教育の、本当の始まりだった。


 佐藤正治は、その夜、宿の外に出て空を見上げた。


 星は少なかった。

 街の明かりに負けて、ほとんど見えない。


 かつては、胸を張って空を見ていた。

 自分は間違っていない、と疑わなかったからだ。


 もう、それはできなかった。


 だが同時に、

 目を逸らすことも、できなかった。


 この重さを、

 この取り返しのつかなさを、

 なかったことにはできない。


 ——抱えたまま、進むしかない。


 それが、

 遅すぎた再教育の、本当の始まりだった。


 佐藤は、ゆっくりと息を吐いた。


 ここで、はっきりと理解した。


 自分はもう、

 「過去を肯定して前に進む」道を、完全に失ったのだと。


 あれは正しかった、とは言えない。

 必要だった、とも言えない。


 では、過去の生徒を

 どう見なければいけなかったのか。


 答えは、痛いほど明確だった。


 未完成な存在として。


 叱られる理由を理解できず、

 言葉を選ぶ余裕もなく、

 ただ「怖い」という感情だけを抱えて、

 目の前に立っていた人間として。


 佐藤は、生徒を

 「未来のために今を耐えさせる存在」として見ていた。


 だが本当は、

 彼らはすでに“生きている途中”だった。


 今この瞬間にも、傷つき、迷い、

 壊れてしまう可能性を抱えたまま、

 必死に立っていたのだ。


 その「今」を、

 自分は平気で踏み越えてきた。


 未来の名の下に。

 正義の名の下に。


 佐藤は、拳を握りしめた。


 悔しさでも、怒りでもない。

 もう戻れない、という理解だった。


 それでも。


 だからこそ。


 これから出会う誰かだけは、

 「正す対象」ではなく、

 「声を持った人間」として見なければならない。


 救えなかった過去の代わりにはならない。

 帳消しにもならない。


 それでも、

 間違えた人間にできる唯一の選択だった。


 夜風が、頬を撫でる。


 佐藤正治は、空から目を逸らさずに、

 その冷たさを受け止めていた。


 逃げない、と決めた人間の顔で。

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