第5話 配置の確認

 小学校は休みで、鎖夜は休日出勤。

 だから琴里は、今日も鎖夜と一緒に会長室に来ている。


 特別な予定じゃない。

 鎖夜に仕事がある日は、だいたいこうだ。


 朝は少しだけゆっくり起きて、

 用意された上品な服を着させられ、

 運転手つきの大きな車で迎えにきて貰って、

 ガラス張りのエレベーターに乗る。


 高層ビルの上階に向かう間の、耳が塞がるような感覚も、もう慣れている。


 この部屋も、慣れた物だ。

 広いソファの柔らかさも、窓際の光の強さも、知っている。


 窓ガラスの向こうでは、街がずっと下にある。

 人も車も小さくて、音は届かない。

ここにいると、世界が少し遠くなる。


 琴里はクラスで2番目に背が低いので、ソファに深く腰掛けると、足が床に届かない。

 ぶらつかせながら、鎖夜に勧められた児童書を膝に乗せる。

 文字が多いな、と思う。


 執務机の向こうで、鎖夜は仕事をしている。

 椅子に座ったまま、片手で紙の書類をめくり、もう片手でキーボードを打つ。

 視線は忙しく行き来しているのに、動きに迷いはない。


 それでも、ときどき。

 ほんの数瞬、琴里を見る。


 ページをちゃんと追っているか。

 退屈していないか。

 寒がっていないか。


 確認するみたいな視線。


 鎖夜と琴里の目の色は、よく似ている。

 籠之家の血統に特有の紫で、

 光の当たり方によって深さが変わる。

 でもほんの少し、鎖夜のほうが濃い色をしている。


 鎖夜の垂れ目の奥でその瞳が輝き、自分を見詰めていると、胸の奥が少しだけ落ち着くと琴里は感じている。

 でも、決して口には出さない。


 本に視線を戻すと、

 鎖夜も何事もなかったみたいに仕事に戻る。



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 コンコン、コッ、コン! と、リズミカルなノックの音。


 返事を待たずに、扉が開く。


「失礼しまぁすっ」


 入ってきたのは、見覚えのある小柄な女性だった。

 鎖夜と一緒にいる時にたまに会うけれど、琴里はあまり話したことがない。

 しかしあまりにも目立つ格好をしているので、存在は忘れようもない。


 だぶだぶで、完全にオーバーサイズの白いうさぎ耳のついたパーカー。

 うさぎの左耳にはリングピアスが2個ぶら下がっていて、歩くたびに音が鳴る。

 というか、袖の中にも何か入れているのか、金属質な音がたまに響く。

 いつも軽そうな笑い方をしている人だけど、ショートブーツは鉄板入りのようで、足音だけは重たい。

 首元に黒いスカーフを巻いているけど、たまにその隙間から抉れたような古傷が覗く。

 明らかに、オフィスビルには似つかわしくない風貌の人だ。


名前は……たしか。


「お待たせー、当主さま」


「予定より早いね、兎斗さん」


ーーそうだ、月城 兎斗(つきしろ・とと)。


鎖夜は椅子から立たない。

書類に目を落としたまま、声だけかける。


「いやー、片付けが、思ったより静かで捗ってさあ。

 棚の奥に隠れた小さいやつも、邪魔臭い重たいやつも、全部まとめて綺麗に整理できちゃった」


 兎斗は、部屋を見回してから、ソファの方を見る。

 視線が、琴里に止まる。


「こんにちはー、今日は読書の秋、もう冬かな?」


 軽い声。

 距離感も、軽くて近い。


 琴里が返事をする前に、鎖夜の声が重なる。


「そう、読書中。お静かにお願いします」


 言葉は穏やかだけど、間に入るのが早い。

 兎斗は肩をすくめて笑う。


「はいはい。失礼しましたー」


 鎖夜と兎斗の会話は、いつもどこか含みがあると琴里は思っている。

 棚だの、整理だの、重さだの。

 一見、日常的な会話に聞こえる。

 でも、言葉通りの意味でないことは、なんとなくわかった。


 会話の途中で、鎖夜の視線がふっと外れる。

 琴里のほうを、じっと見ている。


 琴里の膝掛けが、少しずれていた。


 鎖夜は何も言わずに立ち上がる。

 椅子を引く音が少し大きい。

 ソファの前まで来て、しゃがむ。


 指先で、そっと膝掛けを持ち上げ、丁寧に位置を整える。

 琴里の膝をポンポンと軽く叩いて、顔を上げる。


「寒くない?」


 囁くような小さな声。

 柔らかくて、甘い。

 兎斗と話していた時とは、違う声だ。


「……だいじょうぶ」


 答えると、鎖夜は頷いて立ち上がる。

当然のことを済ませただけ、という顔だ。


「……いやー」


 兎斗が、面白そうに笑う。


「相変わらず過保護だなあ、当主さま」


 鎖夜は自分の肘にかけていた和柄のストールの位置を直しながら言葉を返す。


「必要なことしかしてない」


 悪びれもしない。

 当然といった態度。


「それがもう、過剰なんだって」


兎斗は、琴里の方を見て、にっと笑う。


「大事にされてるねえ」


 その言葉に、鎖夜の視線が一瞬だけ鋭くなる。

 でも、声は変わらない。


「話は終わり?」


「終わり終わり。じゃ、またね」


 兎斗は軽く手を振って、部屋を出ていく。

 扉が閉まる音が、遠く感じる。



 静かになると、

 鎖夜はすぐに琴里へ向き直る。


「おいで」


 言葉とほぼ同時に、琴里の体が持ち上がった。

 抱き上げられる、と思うより先に、もう鎖夜の腕の中だ。


 鎖夜は琴里を抱えたままソファに腰を下ろし、そのまま膝の上に置く。

 背中から腕が回り、腹のあたりで、きゅっと締められる。


 距離が、ない。

 空気の入る隙間さえない。


 鎖夜の白い頬が、琴里の薄墨色の頭に擦り付けられる。

 一度。

 間を置いて、もう一度。

 無意識の動きみたいだった。


「……いい子」


 囁く声は甘く、やわらかい。


 琴里は何も言わない。

 言葉を返す必要がないことだけは、分かる。


 そのまま、鎖夜の腕の中に収まっていた。

 しばらくして、

 鎖夜の視線が、ふっと外れる。


 執務机の方へ。


 書類が積まれた机。

 いつもと変わらない配置。

 見慣れた物。

 だけど、視線は戻ってこない。


 抱かれる腕は離れない。

 むしろ、わずかに力がこもる。


 琴里は知らない。

 その机で何があったのかも。

 鎖夜が、そこに何を見ているのかも。


 確かめるみたいに、

 鎖夜の腕の力が、またさらに強くなる。


 逃がさない、というより、

 離れてしまう可能性を、考えたくない、というふうに。


 ーー鎖夜はなにも、言葉にしないから。

 それは琴里の妄想かもしれないけれど。


 抱き方が変わる。

 腕が組み替えられ、胸元に引き寄せられる。


 琴里の背中が、鎖夜の体温にきちんと重なる。

 柔らかさに沈み込む。


 呼吸の位置が、近い。

 吸う息も吐く息も、重なってしまう距離。


 鎖夜はやっぱり、何も言わない。

 机から視線を外して、琴里を抱きしめ続ける。


 琴里は動かない。

 動かないまま、そこにいる。


 それでいい、と

 重なる温度が肯定する。


 しばらくして、

 鎖夜の顎が、琴里の頭にそっと乗る。


 重さはない。

 ただ、固定されている。


 抱きしめる、よりも、

 囲うに近い形で。

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