第6話 処理の方法
会長室は、静かだった。
高い天井。
厚い扉。
街の気配はガラスの向こうにあり、この部屋だけが切り離されている。
鎖夜は机に向かっている。
書類を読み、署名をし、決裁印を押す。
紙がずれる音。
印鑑を押印する感触。
指先に残る、わずかな朱の匂い。
迷いはない。
判断は滞らず、順序は狂わない。
正しい判断。
正しい配置。
正しい処理。
それらは、考えるまでもなく、身体に馴染んだ動きだった。
ソファでは、琴里が微睡んでいる。
膝を抱え、背を丸めているから、余計に小さく見える。
正しい位置。
正しい距離。
――側にあって然るべき物。
書類の束をめくったとき、
一枚だけ、紙質の違うものが混じっていた。
少し古い。
今は使われていない形式。
印影だけが、妙にはっきりしている。
鎖夜の指が、ほんの一瞬、止まる。
記憶ではない。
感情でもない。
秩序が、一瞬だけ崩れる。
鎖夜はその書類を、束のいちばん下へ滑り込ませた。
後でいい。
今、触れる必要はない。
視線を上げる。
目覚めた琴里が、こちらを見ていた。
目が合う。
何かを求めているわけではない。
訴えているわけでもない。
ただ、
鎖夜がここにいるかを確かめる視線。
鎖夜は一度、息を整える。
椅子から立ち上がり、腕を広げた。
「……おいで」
意識した、柔らかい声。
命令ではない。
呼び戻すための合図。
琴里は立ち上がる。
一歩。
もう一歩。
近づいてきた小さな身体を、鎖夜はそのまま抱き上げる。
女の細腕に、
12歳の少女。
軽くはない。
重さを受け取る。
繰り返されてきた動作だ。
椅子に腰を下ろし、
向かい合う形で膝の上に収める。
背中に腕を回す。
覆い被さるように、静かに囲う。
隙間は、作らない。
けれど、痛みも与えない。
琴里の体温が、ゆっくりと伝わってくる。
――ここだ。
考えるより先に、身体が理解する。
この位置。
この距離。
正しい。
琴里は声を出さない。
呼吸だけが、わずかに上下している。
鎖夜は机に視線を戻す。
書類の山。
ペン立て。
印鑑。
ーー過ぎる、記憶の断片。
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机の上に並べられた物は、
過不足なく揃っていた。
書類も、写真も、音声データを記録した媒体も。
言葉を重ねる必要はない。
鎖夜は、
それ以上、何も足さなかった。
父は、並べられた罪を見詰めていた。
長い時間ではなかった。
確認するような視線でもなかった。
ただ、
一度、瞼を閉じて、
それから小さく、息を吐いた。
そして、
笑った。
「おまえはやっぱり、俺の娘だ」
細められた瞼。
向けられたことのない視線。
やわらかな声音。
鎖夜は、
その言葉を上手く受け取れなかった。
父に背を向け、
何も言わず、部屋を出た。
その後、
父は死んだ。
ここで。
この机に俯せて。
鎖夜が聞いた、
最後の言葉と、
当主という立場だけを残して。
だから鎖夜は、
この席を離れない。
当主であり続けることが、
受け取り損ねた物を処理し続ける、唯一の方法だからだ。
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腕の中で、琴里が小さく身じろぐ。
鎖夜は、言葉を発さずに、腕に少しだけ力を込める。
痛めつけるつもりはない。
ただ、存在を示す為。
――ここにいる。
そう伝えるための圧。
「大丈夫だよ」
繰り返し、告げる。
唯一の家族に。
世界の、中心に。
「お姉ちゃんと一緒にいれば、大丈夫」
薄墨色の細い髪に指を通してゆっくりとすく。
琴里のーー妹の呼吸が、穏やかになっていく。
その変化を、鎖夜は感じ取る。
それでいい。
守っている。
与えている。
どちらも、正しい。
そして置くのだ。
失われない位置に。
手の届く範囲に。
鎖夜は、机から視線を外さない。
この配置で。
この距離で。
壊さなければいい。
壊れなければいい。
鎖夜の中では、
これは最初から、正しかった。
籠は静かに完成した 鬼灯 @Inomio02
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