第2話 正しい距離

 朝の教室は、いつもとても騒がしい。


 椅子を引く音。

 ランドセルのファスナーを開ける音。

 挨拶をし、名前を呼び合う声。


 その喧騒の中で、琴里は自分の席に座っている。


 忘れ物はない。

 ノートも、筆箱も、体操服も、全部そろっている。


 確認した記憶は、ない。

 でも、琴里にとっては、あるのが普通だった。


 授業中、先生に指名されて席を立つ。

 黒板の前に立ち、チョークを握る。


 何を書くかは分かっている。

 けれど、最初の一画で、手が止まる。

 黒板は大きく、腕を動かす距離が遠い。


 先生がすぐ近くに来て、手首の位置を調整する。

 琴里は何も言わず、そのまま書き進める。


 席に戻ると、もう次の問題に進んでいた。



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 休み時間。

 琴里は席に座ったままだ。

 誰も、立てとは言いにこない。


「琴里ー、私ね、今日算数のノート忘れてさ」


 前の席から、陽菜(ひな)が声をかけてくる。


「さっきの授業、先生に当てられたらどうしようかって思った」


 クラスで一番背が低くて、

 でも一番落ち着いている子。

 だから、忘れ物なんて、珍しい。


「琴里は忘れ物、本当にしないよね」


「……そうかな」


「うん、みたことないよ」


 ただ、気づいたことを口にしただけの調子だった。



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 給食の時間になっても、琴里は席を立たない。

 いつも、配膳当番に名前を呼ばれるまで動かない。


「行かなくていいの?」


 陽菜が小さく聞く。


「呼ばれてないから」


 それが理由にならないことは理解している。

 けれど、体はそう判断していて、動かない。


 陽菜は何も言わず、琴里の腕を引いて歩き出す。


「はい」


 トレーを取って、琴里に差し出してくれた。


「ありがとう」



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 昼休み、保健室の前を通る。

 体調が悪いわけじゃない。

 でも、いつか呼ばれそうだなと、ぼんやり考える。


「琴里ってさ」


 帰り支度をしながら、陽菜が言う。


「あんまり自分から動かないよね」


 言葉を探している感じはない。

 淡々としている。


「……そうかも」


 否定も、肯定もできる。

 でも、どちらも正しくない気がした。


「ーー家の人、過保護じゃない?」


 その一言で、空気が少し止まる。


 琴里は答えない。


 分かっている。

 普通じゃないことも、行き過ぎていることも。


 でも、それをどうするかは、

 もう琴里の手の中にはない。


「……よく分からない」


 そう言うと、陽菜はそれ以上、何も聞かなかった。



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 お父さんが死んだ。


 でも、琴里は知っている。

 本当は、ずっと前から知っていた。


 あの人は、琴里の本当の父親じゃなかった。


 お母さんも、

 ーーたぶん、本当の父親だった人も、

 

 もう、とっくに、どこにもいない。


 使用人も、全員、鎖夜が辞めさせた。


 それで、この家は二人きりになった。


 鎖夜は琴里の前にしゃがみ込む。

 視線の高さを合わせて、静かに言う。


「ぜんぶ任せて。琴里は、なんにもやらなくていいよ」


「……自分で、できるよ」


 そう言うと、鎖夜は小さく笑った。


「うん、知ってる」


 紫の瞳が、

 琴里と、よく似た色の瞳が、

 僅かに、揺れた気がした。


「でもね」


 一拍置いて、続ける。


「出来なくなっても、いいんだよ」


 鎖夜は、目を細めて、笑って。

 甘い声で、囁いた。


「お母さんも、お姉ちゃんもーー全部、私がやってあげるから」


 音が減って、

 距離が縮まって、

 逃げ道だけが、静かに消えた。


 琴里は、何も言わなかった。

 拒まなかった。


 逃げられたとしても、

 行くところなんて、ない。


 それが、始まりだった。

 とっくに、終わっていた。

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