籠は静かに完成した
鬼灯
第1話 籠はまだ、開いている
目を覚ますと、琴里(ことり)はいつも通り逃げ場のない壁際に閉じ込められていた。
背中から覆い被さるように重なった鎖夜(さや)との距離が、近すぎて。
伝わる柔らかな感触と、温い体温に、全身を撫でられているような錯覚を起こす。
布団は一組だけ――それが、この家の決まりだった。
初冬の朝は、まだ薄暗い。
障子の向こうから、朝の気配が滲んでくる。
「……琴里、起きてる?」
寝起きの甘く掠れた声が、鼓膜を揺らす。
「……まだ」
短く答えると、微笑むような息遣いが後頭部を掠める。
余計なことを、考えてしまう。
布団の中で体を丸めたまま、琴里は少しだけ肩をすくめた。
「寒い?」
「……べつに」
言い切ると、鎖夜は小さく息を吐く。
「そう。私は、少し寒いかな」
柔い声でそう溢すと、温もりを求めるように腕の力が強まる。
琴里は返事をしない。
返したら、何かが変わってしまいそうで。
二年前。
鎖夜との関係が変わった日――鎖夜の養女になってすぐの朝のことを、琴里は思い出す。
沢山いた使用人たちが静かに去り、家の中が急に広く、そして狭くなった日。
この布団も、その頃からずっと一組だけだ。
背後の体温に、身じろぎしたくなる。
でも、壁があって、布団があって、逃げ場はない。
だから琴里は、ただ目を閉じる。
朝の支度の時間が来るまで、あと少し。
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鎖夜の腕が離れると、布団の中の温度が一気に下がった気がした。
琴里はゆっくりと体を起こす。
逃げ場のない壁際から這い出るようにして座ると、鎖夜はもう半身を起こし、琴里を見下ろしていた。
伏せがちな垂れ目の紫が、薄暗い朝の光を拾うたびに、色の深さを変える。
その視線に、理由もなく背筋が伸びる。
「立てる?」
「……うん」
答えるより先に、鎖夜の手が伸びてくる。
肩に触れ、次いで背中に回り、軽く支えるようにして立たせてくれる。
鎖夜みたいな大人ではないけれど、琴里だってもう十二歳だ。
起き上がるだけで転ぶはずもないのに、必ずそうする。
「冷たいね」
畳に触れた足先を見て、鎖夜が言う。
琴里の足首はまだ細くて、鎖夜の指が回ると一瞬で囲える。
「すぐ靴下履こう。動かないで」
琴里は言われた通り、その場に立ったまま動かない。
鎖夜が屈んで、用意してあった靴下を手に取る。
その距離が、やっぱり近い。
顔を上げれば、すぐ視線が合ってしまいそうで、琴里は自然と視線を落とす。
畳の目を数えるみたいに、意味もなく。
靴下を履かせる手つきは、丁寧で、迷いがない。
足首にきちんと合わせて整える。
「ほら、あったかい」
両足を履かせ終えると、鎖夜は満足そうに頷いた。
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「行こ」
そう言って、今度は琴里の手首を取る。
指を絡めるわけではない。
ただ、離れないように。
キッチンに入ると、鎖夜は何も言わずに椅子を引いた。
自分が椅子を引き、琴里がそこに座る、それが当然だという仕草。
琴里は素直に腰を下ろす。
背中に手を添えられて、位置を整えられる。
正しい配置があるのだろう。
鎖夜はすぐに動き出す。
昨日の夜に用意した物を手際よく温め直し、迷いなく皿に盛り付ける。
配置も順番も、全部決まっているみたいだった。
味噌汁の椀を手に取ると、鎖夜は自然な動作で息を落とす。
ふう、ふう、と二度。
湯気が落ち着いたのを確かめてから、琴里の前に置く。
温度じゃなく、琴里の顔を見るために一拍置くところが、いつも通りだった。
「熱くないよ」
鎖夜がそう言うなら、そうなのだろう。
琴里が舌を火傷することは絶対にない。
鎖夜は隣の席に座る。
距離は、やはり近い。
箸を持った琴里の手元に、すぐ視線が落ちる。
「……それ、切ろうか」
答える前に、鎖夜の箸が動いて、食べやすい大きさに整えられる。
皿が少しだけこちらに寄せられて、次に口に運ぶ物まで自然に決められていく。
「はい」
差し出されるタイミングが正確すぎて、琴里は反射で口を開ける。
介護みたいだ、と思うのに、恥ずかしさより先に安心が来る。
噛む間も、飲み込む間も、鎖夜は待つ。
急かさない。
目を、離さない。
「ちゃんと食べてえらいね」
甘い声で囁かれる。
異常だと、頭ではわかっている。
でも、嫌だとは思えない。
むしろ、任せてしまう。
鎖夜自身も同じペースで食べている。
琴里に手を伸ばしながら、合間に自分の分もきちんと口に運ぶ。
動きに無駄がないから、結果的に食べ終わるのはほぼ同時だ。
皿が空になる頃、鎖夜の物も琴里と同じくらい減っていた。
鎖夜は空になった皿を見てから、琴里の口元に一度だけ視線を落とす。
何かを確認するみたいに。
食器を片付け終えると、鎖夜は迷いなく琴里の腕を引いて洗面所へ向かった。
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「動かないでね」
声が、やけに優しい。
歯ブラシを取るのも、歯磨き粉を出すのも、全部鎖夜がやる。
琴里はただ口を開けるのが仕事だ。
「はい、あー」
言われる前から、自然と従ってしまう。
それを当たり前みたいに受け取って、鎖夜は小さく笑った。
「いい子」
褒められるようなことじゃないのに。
胸の奥が、きゅっと縮む。
歯ブラシが口の中に入る。
力は驚くほど優しくて、痛くも不快でもない。
むしろ、丁寧すぎるくらいだ。
「くすぐったい?」
首を横に振ると、鎖夜は嬉しそうに目を細める。
「そう。じゃあ、このままね」
磨かれている間、鎖夜の癖のある髪が頬に触れたり、吐息が首元をかすめたりして。
そのたびに、どうしていいか分からなくなる。
恥ずかしい、という感覚はちゃんとある。
でも、それ以上に――安心する。
それが、いちばん怖い。
「はい、終わり」
口を閉じると、鎖夜はすぐにコップを差し出す。
「ゆすいで」
言われた通りにすると、今度は口元を覗き込んで、満足そうに頷いた。
「うん、綺麗」
その一言で、胸の奥がじんわり温かくなる。
それを悟られたくなくて、琴里は視線を落とした。
「……自分でできる」
小さく言うと、鎖夜は少しだけ驚いた顔をして、それから、困ったみたいに笑った。
「できるのは知ってるよ」
否定しない。
でも、やめない。
「私がやりたいだけ」
そう言われると、それ以上は言えなくなる。
鎖夜に触れられている時間が、当たり前になってしまった自分を、琴里はもう止められない。
「寒くない?」
そう言って、タオルで口元を拭かれながら、琴里は小さく首を振る。
寒くない。
二人一緒なら、寒くない。
鎖夜が微笑む。
甘くて、柔らかくてーー絡めとるような笑顔。
この家で、朝はいつもこうして始まる。
鎖夜に包まれて、管理されて、甘やかされて。
それだけの日々を、繰り返している。
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玄関を出ると、朝の空気がひんやりと頬に触れた。
門の外に出たところで、鎖夜は一度だけ立ち止まる。
琴里のマフラーを締め直し、風が入らないように、コートの前を指先で軽く整える。
「寒くない?」
「うん」
答えると、ひとつ頷いて鎖夜が歩き出す。
自然と、琴里の半歩前。
そして、必ず車道側。
昔は、黒くて大きな車が迎えに来ていた。
運転手付きで、音もなく門の前に止まるやつ。
あれで学校に行くと、必ず視線が集まった。
噂も、ひそひそ話も、すぐに広がった。
それが嫌だと伝えたのは、ほんの一度だけだ。
「……歩いて行きたい」
そう言ったとき、鎖夜は少しだけ驚いた顔をして、
でも、理由を聞き返したりはしなかった。
「わかった」
それだけ。
次の日から、車は使われなくなった。
大きな会社をいくつも抱えている人なのに。
名家の当主で、忙しいはずなのに。
朝も、夕方も。
琴里の送り迎えだけは、欠かさない。
歩く速度も、琴里に合わせている。
速すぎず、遅すぎず。
でも、琴里が立ち止まれば、すぐ止まる。
「……」
黙ったまま歩くのは、別に気まずくない。
むしろ、落ち着く。
鎖夜の存在が、すぐ隣にあるのが当たり前になっているから。
通学路の角を曲がったところで、突然、犬の吠える声がした。
「ワンッ!」
金網越しに飛び出してきた茶色の影に、琴里は思わず肩をすくめる。
その瞬間だった。
無意識に、手が伸びて。
鎖夜の人差し指を、ぎゅっと握っていた。
鎖夜の歩みが、わずかに緩む。
振りほどかれることも、握り返されることもない。
けれど、指先はそのまま、琴里の手を受け入れる。
犬はまだ吠えている。
金網に体当たりする音が、思ったより近い。
琴里は顔を上げられないまま、握った指に力を入れてしまう。
鎖夜は前を向いたまま、視線だけをわずかに落とす。
それから、何も言わずに琴里に体を寄せる。
距離が、より近くなる。
犬の声が遠ざかるまで、そのまま歩いた。
鎖夜の指は、動かない。
やがて吠え声が聞こえなくなると、琴里はようやく体から力を抜いた。
そっと指から手を離す。
「……大丈夫?」
少し遅れて、そう聞かれた。
琴里は小さく頷いて答える。
「うん。もう平気」
鎖夜も無言で頷く。
歩調を落とし、さっきよりさらに、歩く位置を詰めてくる。
肩が完全に触れる距離。
胸が騒つく理由は、考えないことにする。
今考えなくても、明日もこうして歩くのだ。
校門が見えてくるころには、さっきのことはもう話題に上らない。
でも、握った指先の感触が、てのひらに残っている。
それが、いつからの癖なのか。
琴里は、憶えていない。
校門の前で、鎖夜は立ち止まる。
朝の通学時間で、周囲には人の気配がある。
でも、その中で二人、いつもの距離のままだった。
鎖夜が琴里を見る。
頭のてっぺんから足元まで、確かめるみたいに視線を滑らせてから、短く言った。
「……忘れ物、ない?」
「うん」
答えると、それ以上は聞かれない。
というか、忘れ物があるわけがない。
準備も全部、鎖夜がやっているのだから。
鎖夜は何も言わず、琴里のマフラーの端を軽く整える。
少し手を上げて、頬に触れるか触れないかの距離で、指先が止まる。
それで終わり。
「行ってらっしゃい」
落ち着いた声音。
特別な感情は、含まれていないように聞こえる。
琴里は一歩、後ろに下がる。
校門。
この線を越えたら、朝の2人の時間は終わりだ。
「……行ってきます」
そう言うと、鎖夜は小さく頷いて微笑んだ。
背を向けて足を踏み出す。
振り返らずに校門をくぐる。
背中に視線を感じている気がしても、確かめない。
門の内側に入ると、周囲の音が一気に現実に戻る。
友達の声、靴音、朝のざわめき。
琴里もその中に混じっていく。
いつも通り。
昨日と同じ。
何も変わらない朝。
それでも、指先を握った手だけが、まだ少し温かかった。
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