一樹と阿貴

「あの事件」から時は流れ、季節はすでに三月に入っていた。


公立高校受験を控えた中学三年生にとって、最も神経をすり減らす時期。

教室の空気はどこか重く、些細なことで苛立ちが表に出る者も少なくない。


もっとも、宇都宮阿貴はその輪の外にいた。


青碧学園一本に絞っていたため、試験自体はすでに終えている。

本来なら多少は気楽でいられる立場のはずだが――現実はそう甘くない。


「なあ宇都宮、ここ教えてくれ」

「お前さ、英語のこの問題どう解いた?」


成績上位者という理由だけで、

連日クラスメイトの自習に付き合わされていた。


この日も放課後、ようやく一段落ついたところで、

教室の扉が開いた。


入ってきたのは、秀人とはまた違うタイプの長身の男だった。


細身で、すっとした体格。

目は常に半分閉じているような細目で、

柔らかい印象の顔立ちに、さらりと襟足にかかる髪。


秀人の小学校以来の幼馴染――石岡一樹である。


一樹は迷うことなく窓際前列の阿貴の席へ向かい、

その肩をぽん、と叩いた。


「よう、お嬢」


阿貴の眉が、わずかに動く。


「……だから、その呼び方やめろって言ってるだろ」


「無理無理。もう定着してるし」


軽い口調で即答し、一樹はにやりと笑った。


“お嬢”。

阿貴がこの学校で定着させられてしまった、不本意極まりないあだ名だ。


何度注意してもやめる気配のない張本人が、この男だった。


「何か用か?一樹」


無愛想に返す阿貴に、一樹はわざとらしく肩をすくめる。


「いやいや、遠路はるばる隣のクラスから来た友に対して、冷たくない?」


「歩いて何歩だと思ってる」


「距離じゃない。心意気の問題だ」


呆れ半分で阿貴は言った。


「で、わざわざ何しに来たんだよ。今忙しいんだけど」


実際、まだ声をかけてきそうなクラスメイトの視線がいくつかある。

それを察したのか、一樹は軽く手を振った。


「大丈夫大丈夫。長話はしねえよ」


――信用できない。


阿貴は内心そう思ったが、口には出さない。


そもそも、阿貴がこの男を全面的に信用していないのには理由がある。


一年の頃、同じクラスになった際、

一樹は阿貴を本気で「女」だと思い込み、

それなりに本気のアプローチを仕掛けてきた過去があった。


もっとも、

かつて秀人と険悪だった関係が今に至るまで続いているのは、

この男が間に立っていたからでもある。


一樹曰く――

阿貴は「前世の恋人」。


阿貴曰く――

一樹は「単なる悪友」。


「で?」


短く促すと、一樹は楽しそうに言った。


「この間の、青碧での『事件』」


「……またそれか」


阿貴は深いため息をついた。


あの場に居合わせた野次馬の中に、

同じ学校の生徒がいたらしい。


以来、阿貴も秀人も、質問攻めにあっている。


一樹はそんな阿貴の様子など気にも留めず、

ずいっと身を乗り出してくる。


「なあ、詳しく聞かせてくれよ」


「……秀に聞けばいいだろ」


「あいつ?」


一樹は肩をすくめる。


「無理無理。

 問い詰めたら、殴りかかってきやがった」


「秀らしいな……」


阿貴は気のない返事をした。


「まあ、アイツもお前も有名人だからな」


「不名誉な意味でな」


一樹は笑いながら、噂話を並べ立てる。


「お前が秀人を殴った」

「実はお前が女だった」

「分身した」

「ドッペルゲンガーを見て死ぬ」


「……」


話を聞くうち、阿貴はその場にずるずると崩れ落ちそうになった。


「……うちの連中、馬鹿しかいないのかよ」


「今さら気づいた?」


一樹は楽しそうだ。


「で、本当のところは?」


これ以上放っておけば、

また余計な噂が増えるだけだ。


阿貴は仕方なく、

できるだけ秀人の面子を潰さないように「あの朝」の話をした。


一樹は断片的には知っていたが、

当人の口から聞いて、ようやく納得した様子だった。


「なるほどなぁ……」


そして。


「……で?」


「?」


「お嬢そっくりの美少女」


阿貴は、嫌な予感しかしなかった。


「それ、もっと早く教えるべきじゃね?」


「……だから、お前には言いたくなかったんだ」


「そんなつれないこと言うなって」


一樹はきりっとした顔を作り、

阿貴の肩に手を置く。


「お前な――マジで可愛いぜ」

と、その肩を抱き寄せようとする。


次の瞬間。


「離せ、このバカずき!」


阿貴の膝が、容赦なく一樹の腹に突き刺さった。


「ぐっ……!」


一樹はその場にうずくまりながら、

それでも笑っていた。


「……相変わらずだな、お嬢」


阿貴は、溜息をついた。

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