受験開始前の朝 会場たる教室にて

時間が経つにつれ、先ほどまで静まり返っていた教室にも、少しずつ人が集まり始めていた。

椅子を引く音、鞄を置く気配、小さな話し声。

それらが重なり合い、試験前特有の、落ち着かないざわめきが空間を満たしていく。


場所と状況を除けば、普段の朝の教室と変わらない。

その空気が、西条唯貴の中で昂っていた緊張を、少しずつ、確実に和らげていた。


一方。


高杉秀人は、先に行ったであろう親友が待っているはずの教室へと足を速めていた。

人の出入りが増え始めた廊下を抜け、目的の教室へと入る。


そして、すぐに見つけた。


一人、机に向かい、静かに座っているその姿。

昨日、一緒にここへ来る約束をしていた、あの親友――


……の、はずだった。


(……ん?)


近づくにつれて、胸の奥に、かすかな違和感が生まれる。

だが、それが何なのかを考えるほど、秀人は立ち止まらなかった。


(やっぱり俺を無視して、先に行きやがったな)


軽い苛立ちと、いつもの悪戯心が勝つ。


秀人は相手の背後に回り込み、

その肩に、どん、と大きな手を置いた。


「よう、


声を落とし、顔を近づける。

だが、返事はない。


「……おい」


無視されたと思い込み、

肩に置いた手に力を込め、その身体をぐっと揺すった――その瞬間。


乾いた、鋭い音が教室に響き渡った。


次の瞬間、秀人の視界が一瞬、白く弾ける。


「……な、なんだぁ?」


いきなり目の前の“親友”に殴られ、秀人は完全に困惑していた。

だが、驚いたのは、殴られたことだけではない。


「いきなり何するのよ!この痴漢!」


――え?


秀人は固まった。

目の前の人物が、使だ。


彼の友人は、女の子のような外見を気にしてはいたが、

たとえ冗談でも、こんな口調を使うような男ではない。


「お……おい、何言って……」


「痴漢!変態!一体何考えてるの!」


唯貴は、頭に血が上り、一気にまくし立てていた。

せっかく落ち着きかけていた神経を、あらぬ形で刺激されたのだ。

冷静でいられるはずがなかった。


「お前……俺が分かんねえのか?」


秀人も次第に苛立ちを隠せなくなる。

目の前にいるのは、間違いなく昨日まで一緒に話していた親友の姿だ。

なのに、その態度も、言葉遣いも、明らかに違う。


「いい加減、悪い冗談やめろよ!」


教室に響き渡る声で、秀人は怒鳴りつける。


「阿貴!

お前らしくねえぞ、こんな女言葉使って!

そこまでして俺を騙したいのかよ!?」


だが、その大声にも、唯貴は一歩も引かなかった。


「あなたこそ、何なのよ!」


声を荒げ、睨み返す。


大体、アキって誰のこと!?

あたしは女なの!

いきなり人に触っておいて、侮辱する気!?」


秀人はいまだに悪い冗談だと思い込み、

唯貴は憤怒で顔を真っ赤にしている。


受験前の朝。

本来なら静かであるはずの教室には、

いつ爆発してもおかしくない、険悪な空気が漂い始めていた。


その時だった。


がらり、と。

何の前触れもなく、教室の扉が開く。


冷たい外気が一瞬だけ流れ込み、

全員の意識が、反射的に入口へと向いた。


「……すみません、少し遅れました」


場違いなほど落ち着いた声。


そこに立っていたのは、

受験票を手に、ロングコートを羽織った一人の少年。


宇都宮阿貴。


何も知らないその表情が、

かえって教室内の異常さを際立たせる。


「――あ」


唯貴の口から、思わず声が零れた。

秀人もまた、目を見開いたまま、その姿を凝視している。


二人の視線が、

今、同時に一人の少年へと収束した。


何も壊していないはずの、

ただ遅れてきただけの当事者が、

最悪の空気の中心に、足を踏み入れてしまった瞬間だった。


教室は、静まり返る。


次に何が起こるのか。

それを知っている者は、まだ誰もいない。

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