第二話
アルベルタは、多くの者がそうであるように、貧しい家庭に生まれた。父親はおらず、病気の母が一人でアルベルタを育てた。貧しい身で病院代も薬代もろくに賄えるはずもなく、町医者に診てもらうことで精一杯だった。アルベルタは物心ついたときから働いていた。その日のご飯を食べるためなら何でもした。病気の母を見捨てられるはずもなく、アルベルタは自分と母の二人を養うために働いた。
ふと、貧民街の外を見て羨ましくなることは多くあった。鮮やかな色のドレス。焼きたてのパンに、バターをたっぷり使ったお菓子。香油を塗った髪は風に靡いて、ドレスと揃いのリボンが結えられている。あのように生まれていたら。そう思うことは何度もあった。それでもアルベルタはアルベルタの人生から逃れることはできず、泥まみれになって働き、硬いパンを齧るばかり。
そんな折だった。母の病状が悪化した。呼吸もままならず、やたらに冷たい水を欲しがり、脚ががたがたと震えて立てやしない。なけなしの金を叩いて、医者へ連れて行った。医者は隅々まで母の体を診た後、悲しげに首を振った。それから、言うのだ。これは、遺伝するものかもしれない、と。
人魚病。そのような病があるのだ、と。
嵐が止んだ翌日から、アルベルタはハンスの屋敷で使用人として働くことになった。もう少し休んでもいい、とハンスは言ったが、大人しくベッドに腰掛けているのは落ち着かなかった。そう言うと、制服と、上等な下着に、寝巻き、使用人用の部屋を与えられた。珍しいことに、個室であった。水だって井戸から汲んでこなくてもいいようになっている。部屋を持て余しているのだとのことだが、屋根があり、椅子があり、机があり、ベッドまである。ベッドには破れてもいないシーツが張られている。随分な好待遇だ。
アルベルタは初めて風を浴びずに夜を明かした。心地いい眠りから目が覚めると、一人の女性がアルベルタの顔を覗き込んでいた。わあ、と悲鳴を上げて飛び上がる。
「あんたが、新しい使用人の子?」
語調のきつい聞き方だ。声もなく、首肯する。すると、シーツを引き剥がされ、ベッドから落とされた。思わず尻餅をつく。そのまま寝巻きまで脱がされそうになったので、流石に抵抗した。女性は眉を寄せて、吊り目がりの眦をさらに吊り上げる。
「寝こけてる暇はないのよ、新人。あたしはあんたの先輩、ジェーン。ほら、早く起きて、顔を拭いて、着替えて、仕事!」
女性──ジェーンは容赦なくアルベルタの尻を叩いた。洗面器と共に、上からタオルと制服がばさりとかけられる。紺色のワンピースに白いエプロン、キャップのシンプルなものだ。まさか目の前で着替えろと言うのだろうか、とジェーンの方を見る。出ていく気配はない。見張られながら、洗面器に水を張り、タオルを絞って顔を拭く。まだ出て行かない。仕方なくアルベルタは寝巻きを脱ぎ、下着姿になって服を着替えた。その間も、ずっとジェーンはアルベルタを見ている。否、睨んでいる。まだアルベルタは何もしていない。これが初対面だ。失礼なことも言っていないはずである。ジェーンは特徴のない顔立ちであるが、中々の美人で、美人が意味もわからず怒っていると恐ろしい。アルベルタは怯えながらキャップを被った。支度が整ったところで、ジェーンが目と鼻の先まで顔を寄せた。
「いい? ちょっとハンス様に気に入られたからって、調子に乗らないこと。身を弁えなさい」
ああ、と納得が行った。要するに、ジェーンはハンスを慕っているのだ。出てきたばかりのアルベルタが「気に入られた」ように見えるのが癪なのだろう。アルベルタはしおらしく見えるように眉を下げ、はい、と頷いた。
「ハンス様は、自分は貴族ではなく、財産があるだけだからと気取られないの。食事だって使用人には勿体無いものを与えてくださるし、休暇だって自由に取らせてくださる。でも、私たちは所詮使用人。あなたみたいな、いかにも貧民街育ちの子はすぐに舞い上がっちゃうから嫌になるったら、もう」
ジェーンは仕事を教える傍ら、絶え間なくお喋りをしていた。他にも使用人が数名いるようだが、まだ顔を合わせていない。女性陣はジェーンとアルベルタの二人だけだということもお喋りの中で聞いた。アルベルタたちの主な仕事は洗濯に掃除、買い出しになるらしい。ジェーンの細腕では、女一人ではこの大きな屋敷を磨き上げることは難しいだろう。そう思っていたが、ジェーンは仕事が丁寧かつ早かった。アルベルタが階段の一段目を掃いている間に、手すりを全部磨いている。シーツを一枚干している間に、他の衣類を干し終わっている。呆気に取られていると、金貨の入った袋を渡された。
「後はあたしがやるから、あんたは買い出しに行って。これ、メモね」
買い出しリストを渡され、あれよという間に追い出される。口調や態度はきついところがあったが、仕事ができて、面倒見がいい。ジェーンはそのような女性のようだ。
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