マーメイド・ゴシック

日向宮子

第一章 少女アルベルタ

第一話

 この町には人魚が棲んでいる。人魚は滅多に海から出てこないが、一度顔を覗かせると誰もが目を奪われる美しい容姿をしている。長く、ほつれのない髪を濡らし、お気に入りの貝殻で身を覆い、宝石のように輝く鱗を持っている。そして、人魚は不老不死であった。美しいままで、変わらない時を過ごし、気まぐれに人間の前に現れる。人魚を見た者には幸運が訪れる、などという噂が出回るのも時間の問題だった。


 人魚は美しいだけではない。その体にも、その血肉にも価値があった。どの絹糸よりしなやかな髪は、貴族が着るドレスの刺繍に使われた。光り輝く鱗は、装飾品の材料になった。そして何より、その血は、その肉は、不老長寿、万能の薬となった。


 彼女たちは、海から出てくることがなくなった。当然のことだろう。しかし商人たちは血眼で探した。探した末、一人の人魚が海面に顔を出した。慈母のように微笑み、高波にも負けない歌声で商人を誘い、あまりの美しさに惚けた商人へ、口付けをした。舌を噛み、血を滲ませた口付けを。


 最後の人魚は、商人が血を飲み下した瞬間を見て、笑った。それは、まるで、悪魔のように。


 *


 その、少女──アルベルタは、嵐に濡れた服を、暖かな暖炉で乾かしていた。豪奢な作りの応接間は、舶来の織物が敷かれている。一つあるだけで働かずとも暮らせるであろう調度品たちがずらりと並んでいた。石造の壁は厚く、嵐の雨音も聞こえない。まるで箱庭の天国のようだった。


 かたりかたりと体を震わせるアルベルタへ、館の主人がティーカップを差し出した。金に縁どられ、花の模様が繊細に描かれたそれは、一目で高級品だとわかる。中には湯気を立てる紅茶が赤く揺らめいており、同時にシュガーポットとミルクピッチャーが隣に置かれた。


「こんな嵐の日に、災難だったね。森で迷ってしまうなんて」

「ええ……けれど、貴方様の……ハンス様のお陰で、助かりました」

「いいや、気にすることはない」


 館の主人、ハンスは鷹揚に答えた。アルベルタは何かを言いたげに目線を彷徨わせている。ハンスはそれを察して、はっは、と豪快に笑った。


「意外に思っているんだろう。まさか、異形館の偏屈主人が、人間に優しくするなんて、と」


 アルベルタはぎくりと肩を強張らせた。否定はしない。図星であった。この館は、この主人は有名なのだ。曰く、黒魔術に没頭している。曰く、幻想生物にしか興味がない。曰く、人魚を探し求めている。どれも、いい噂でないことは確かだ。


「確かに、人間に興味はないさ。けれど今にも凍えて死んでしまいそうな少女を見捨てるほど薄情ではないよ」

「……ええ、そのようですね」


 やっと、そのように、中身のないありきたりな返事をすることができた。本来であれば、アルベルタはハンスのような身分の者と対等に話せはしないのだ。今こうしていられているのは、ハンスが変人であるが故だろう。


 せっかく出されたものだ。飲まねば不作法になろう、と紅茶に手をつける。まず、香りを嗅いだ。腐臭や、泥水とは比較にならない、今までにない、豊かな香りがする。恐る恐る、一口飲んでみた。暖かい。美味しい。


 視線を感じる。はっとしてハンスを見ると、穏やかにこちらを見つめて、砂糖とミルクを勧めた。試しに、砂糖を一つ入れてみる。ティースプーンでくるくると回す。ミルクピッチャーを傾けて、赤色が白く濁っていくのを見つめる。ハンスの視線に刺されたまま、気を紛らわせるようにかき混ぜた。一口、飲む。甘い。まろやかだ。これは、世界で一番の、幸福の味だ。そう思った。


 アルベルタがティーカップを置いたあたりで、ハンスが切り出す。


「それで、どうしてこんな森の中に? この辺りは、僕の屋敷しかないだろう」

「……いいえ、貴方様に御用がありました」

「ほう?」


 そうだ。アルベルタは無意味に森へ入り、偶然招かれたのではない。全ては必然だった。人魚を追うために、人魚伝説を追うためには、この男の存在が有用だった。


 アルベルタは、人魚のことを知る必要があった。人魚伝説を調べる必要があった。であるから、異形館とも呼ばれる屋敷の主人に取り入るほかないのだ。


「ここで、働かせていただけませんか」

「……ということは、知っているんだね? うちの使用人が、逃げたばかりだということを」

「はい」

「それでもいいのかい? どうやら、僕のコレクションは純粋な女性には酷らしい」

「私は、そのために来たのです」


 真っ直ぐに、ハンスを見る。嘘はない。真実だ。だが、打算がある。ハンスは、ふぅむ、と顎髭を摩り、アルベルタへ問いかけた。


「と、言うと?」

「私も、人魚を探しているのです」


 暗に、貴方もそうであろう、と言い含ませる。主人と使用人、という立場でありながら、共謀者になろうとしていた。このようなことは、外では話せない。口に出せない。気狂いだと思われるからだ。人魚は、伝説の、幻の生き物である。そういうことになっている。そうではない、と知っているのは、アルベルタ。それから、ハンスであるはずだ。

 ハンスはしばらく黙っていた。そして、右手を差し出す。


「いいさ。この屋敷は広くてね、掃除も大変なんだそうだ。人手があると助かる。君を歓迎するよ、アルベルタ」


 差し出された右手を、アルベルタは両手で受け取った。ありがとうございます、と頭を伏せる。隠した表情は、見せられない。このように歪に吊り上がった唇を、昏い目を、見せられない。


「顔を上げておくれ、アルベルタ。君の瞳を、僕は気に入ったんだ」


 伊達男のような台詞を吐き、アルベルタのまだ濡れている髪を梳く。夕日を溶かした水面のような髪、若葉より透き通ったペリドットの瞳。アルベルタは奥歯をぎちりと噛み、うっとりとした表情を作り上げた。忌まわしく、悍ましくある髪も瞳も、利用するだけだ、と。


 鏡を見る度に、誰もが見惚れるであろう髪を、宝石より輝くであろう瞳を見る度に、飢えを思い出す。喉が渇く。


 ああ、お腹が空いたな、などと考えながら、アルベルタはハンスの手を握っていた。

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