第三話

 母が眠ったのを確認し、一人になると、途端に不安が押し寄せた。定められた絶望に抗えるほどいい人生ではなかった。人魚病とは、と医者が説明してくれたが、耳に入ったようで入っていない。曰く、人魚の呪いなのだと、初めに呪われた者から受け継がれていった病なのだと言う。どうして子を成してしまったのか、と初めの者を恨みたくなる。それが遺伝するものということも、不治の病であることも、最近になってわかったものだと医者は語ったが、恐らく貴族が罹っていないものだからそうなったのだろう。下々の人間には金もかけられない。情けもない。そういった仕組みになっているのだ。


 いい人生ではない。けれども、死にたくはない。母のように弱り、苦しみ、死を待つだけの体になりたくはない。本当ならば、とびきりおしゃれをしてみたかった。食べきれないほどのご馳走を食べたかった。見たことのない景色を見たかった。恋だってしたかった。誰かに愛されてみたかったし、誰かを熱烈に愛したかった。それも、死んでしまっては希望すら抱けない。


 行くあてもなくふらふらと家を出て歩き、海辺に辿り着く。水面の鏡が映すのは、見窄らしい、生気のない己の顔。ぱたり、ぱたりと雫が落ちて水面を揺らす。わあ、と声を上げて泣くこともできなかった。疲れていたのだ。こんな徒労の末、待ち受けるのが死の病だった。泣きじゃくる力も残っていなかった。


 どれほどそうしていただろう。頬も涙の跡で引き攣れて乾いた頃に、静かに、けれど確かに何かが泳ぎ寄ってきた。ざぶん、ざぶん。ちゃぷ、ちゃぷ。海の奥に見える影は次第に大きくなっていき、そして、顔を出す。


 思わず、目を奪われた。太陽より燃える髪が、月明かりに照らされて、水滴を反射して、煌めいている。長い睫毛に縁取られた瞳は、萌えた葉の色をしている。真珠のように白い肌は形のいい貝殻を纏って、高価なレースに細やかな刺繍を施したような鰭が海面から覗いていた。


 人魚だ。正真正銘、本物の、人魚だ。この街に棲むという、御伽話では有名な、けれど御伽話でしかない存在がそこにいた。目を、合わせる。あまりにも綺麗な瞳だったから、見つめられることに耐えられす、逸らす。すると、人魚はどの小鳥よりも軽やかで美しい声をして、言った。


「貴女、綺麗ね」


 アルベルタは、驚いた。自分の声ではない。人魚の声だ。けれど、それはアルベルタが言うべき台詞であった。目を見開いて、思わず返事をする。


「何処が? こんな、髪も瞳も、燃え尽きた灰の色をしているのに。煤けて、ほつれているのに」

「いいえ、貴女の色は、世界が真夜中になっても変わらない、素敵な色だわ。暗い暗い闇の中でも、見つけられる」


 それは、アルベルタが生まれて初めて受けた祝福だった。人魚の純粋で純真な言葉は、嘘がない。裏切りがない。きっと、単純なことだった。些細なことだった。それでも、生まれた意味すらわからなかったアルベルタを心の底から肯定してくれたのは、この人魚が初めてだった。アルベルタは目尻に残った涙を拭い、水に濡れることも厭わず人魚に近づく。至近距離で見る人魚は神様が特別に作った芸術品のようだった。そうであるから、アルベルタの特別になったことも当然だろう。


「本当に、そう思う?」

「ええ。私、たまにこうして、宝物を探すのが好きなの。貴女は今日見つけた宝物。今までの何よりも綺麗!」


 人魚は、アルベルタの特別になった。そして、人魚もまたアルベルタを特別にした。アルベルタの胸は歓喜していた。これが、生まれた意味なのだとすら思った。誰だって、誰かにとっての一等大事な宝物になりたいのだ。宝箱に入れられて、大切にされたいのだ。アルベルタはその喜びを知った。血の気のなかった頬が色づいていく。世界が明るく見える。今日、この夜、人魚に出会ったのは偶然ではない。運命だった。


「ねえ、私たち、お友達になれない?」


 人魚は無垢にそう誘う。害意も悪意も、飢えも貧しさも知らぬ瞳で、アルベルタを見つめる。醜い感情は抱かなかった。この綺麗な存在は傷がないからこそ綺麗なのだ。差し伸べられた手を固く握って、アルベルタは頷く。


 そして、薬毒じみた高揚から突き落とされた。


「嬉しい! 陸のお友達が『二人も』できるなんて。ああ、あの人にも教えてあげなくっちゃ」


 人魚は語る。目尻を、頬を、薔薇色に染めて。恋に蕩けた瞳をして。それは、死への恐怖より、アルベルタの胸を切り裂いた。



 買い出しから戻り、屋敷の門を潜る。すると、何かにぶつかった。人だ。よもや主人に粗相をしてしまったかと慌てて頭を下げると、見知らぬ男がそこにいた。枯葉色の短い髪をした、若い男だ。しばらく互いに無言でいると、男が、ああ、と思い至ったかのように声を上げた。


「お前があの新人か。俺はキード。この屋敷の料理番をしてる」

「は、初めまして。アルベルタ、です」


 ジェーンの他にもいる使用人らしい。軽く紹介をしてくれてもよかったものを、ジェーンは何やら言いにくそうにしていたのでこれが初対面だ。気さくな、人の良さそうな青年である。ジェーンが口籠っていた理由がわからないが、使用人同士仲良くしておいて損はないだろう。挨拶と自己紹介を済ませると、キードはアルベルタが抱えていた荷物を軽々と持ち上げた。礼を述べながら、裏口からキッチンへ入る。荷物の仕分けを手伝おうとしたが、キッチンは彼の領域のようで、てきぱきと棚に調味料や食材をしまっていくのを見ているしかできなかった。


 一通り片付け終え、キードが振り向く。


「丁度昼時だ。腹減っただろ? ハンス様の食事は出し終わったから、俺たちも飯にしよう。ジェーンも呼んでくれ」

「はい、ありがとうございます。けど、私は少しで大丈夫です」

「何だ、新人だからって遠慮してんのか?」

「いいえ、そうではなくて……」


 買い出しの途中、どうにも空腹が収まらなかったので、食事をしたのだ。人気のない森の中で、いきのいい、若い果実を食べた。滴る果汁まで飲み干して、腹を満たした。その旨を伝えると、キードは愉快そうに笑った。


「やるなあ。初仕事でつまみ食いとは。わかった、お前のは少なめにしとくよ」


 フライパンを出し、調理に取り掛かるキードの背後を横切って、キッチンを出た。扉を閉めてから、裾の匂いを嗅ぐ。買ってきた香辛料の香りしかしないことに安堵し、アルベルタはジェーンを呼びに駆け出した。

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マーメイド・ゴシック 日向宮子 @hinatamiyako

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