第2話

「エリー、来週末に温泉に行かない?」

エディの誘いは、いつも唐突だ。

「なんだ、いきなり?体の具合でも悪いのか?」

エディが湯治なんて、おじいさんみたいな趣味があるとは知らなかった。


「分かってないなあ、エリーは。温泉は、心と体に効くんだよ。…あったかいお湯につかって、美味しいものを食べて、身も心もゆったりとくつろぐ…それが温泉の醍醐味なんだよ」

「…へえ」

私は温泉というものに、入った事が無い。

地元にそんな施設は無いし、一番近い温泉地でも、かなりの距離があったからだ。


「ここから一番近い温泉地となると…どこだっけ?」

「リヴァーデイルの近くの、ミストレイク・ウェルズだね」

そこは、昔から貴族から平民まで楽しめる、有名な景勝地でもあった。


私は、最近執筆の依頼が増えた事で、一日のほとんどを、机に貼り付いたままで過ごしていた。


これは、行き詰まった気分を変える、うってつけの誘いかもしれない。

締め切りを催促する編集者からも、一時的には逃げる事ができる。

環境を変える事で、新たな視点が見てくるかもしれない。

私は、急に温泉旅行に、出かけたくなってきた。


「よし、行こう。今週末でいいか?」

「さすがはエリー。返事が早くて助かるよ」

そして、私達は、ミストレイクに発つ事となった。


週末、ミストレイク行きの馬車の中。

「温泉に行っても、原稿は書いてもらいますからね」

「…分かってる」

他の編集者からは逃げられても、付添い人であるジュリアンからは、逃れられないのであった。


ジュリアンは、膝の上にガイドブックを広げて、色々と計画を練っていた。

「まずは、ホテルのスパに行って、その後はこのレストランで食事をして…そういえば、滞在期間は、どれくらいなの?」

私は、エディの方を見た。

「う~ん、一週間くらいかなあ。ジュリアンは、滞在が長くなるとまずいかな?」


「いいえ。私の役目はこの人の見張りですから、問題ありませんよ。子爵様」

ケント伯爵夫妻には、子供もいないし、夫も妻の外出を喜んで許してくれる。


「ミストレイクに行くって言ったら、夫に羨ましがられたわ。これでお土産も買わないで帰ったら、怒られちゃうわね」

ジュリアンは、くすりと笑った。

平民出身の彼女が、小さな出版社を立ち上げた際、資金提供者のひとりとして名乗りを上げたのが、ケント伯爵だった。


出版社の経営について、2人で熱く語り合っている内に、気が付いたら結婚していたそうだ。

そういう恋の始まり方も、仕事に生きるジュリアンらしかった。


私達を乗せた馬車は、田舎道に入った。

エディが窓の外を指差した。

「ほら、この辺りは、スターリング家の葡萄畑だよ」

その辺りは、一面が葡萄畑になっていた。


「…壮観ね…さすが国内随一のワイン製造元だわ」

ジュリアンが、目の前の光景に感動したように呟いた。

私も、見渡す限りの葡萄畑に目を奪われていた。


馬車はゆっくりと、道の突き当りの大きな館へと向かって行った。

私達が、馬車から降りると、外で待っていたアレクシアさんが、駆け寄ってきた。

「エリザベスさん、いらっしゃ~い!」

また突き飛ばされたら大変、とばかりにエディが慌てて、彼女を避ける。


アレクシアさんは、私の目の前で急停止した。

彼女は紅潮した顔に歓喜の表情を浮かべて、私を見上げた。

「お久しぶりです、お元気でしたか?」

この間別れて、確か一ヶ月も経っていない気がするが。

「うん。きみも元気そうだね」

「はいっ、今日からよろしくお願いします」


今回の旅行は、アレクシアさんも参加するのだ。

「私、温泉入るの、初めてなんです」

彼女は、遠足に行く子供のように、期待で目を輝かせた。

アレクシアさんの、旅行の荷物が置いてある場所に、燃えるような赤毛の女性が立っていた。


彼女は、私達に向かって、お辞儀をした。

「マーガレット・スミスと申します。今回はアレクシア様の付添い人を、務めさせて頂きます。ブライトン子爵様、シェルバーン伯爵令嬢様、どうぞよろしくお願い致します」

「こちらこそ、レイからきみの事は聞いてるよ」


その時、館から2人の女性と、ひとりの男性が出て来た。

3人は、簡素な野良着を着ていた。


3人の男女は、私達に対して、丁寧で優雅なお辞儀をした。

「皆様、スターリング伯爵家にようこそいらっしゃいました。長女のイザベラでございます。こちらは次女のリリー、兄のスティーブです」

エディが、にっこり微笑んだ。

「初めまして。ブライトン子爵、エドワードです」


女性達は、エディの太陽神のような美貌に、度肝を抜かれたらしい。

「…まあ、こんなにきれいな男の人、初めて見たわ。あなたが、あのブライトン子爵様ですね」

「そちらは、アレクが崇拝して止まない、エリザベス先生ね。噂通りの美人だわ」


「…どうも」

アレクシアさんが、お姉さん達の前に立ちはだかった。

「もう、お姉様。エリザベス先生がびっくりしているじゃない」


「あら、ごめんなさい。アレクからあなたの話を散々聞かされているから、初めて会う気がしなくって…」

「そうですよ。毎日、エリザベス先生がああ言った、こうしたって、耳にタコができるくらい、聞かされてます」


アレクシアさんは、顔を真っ赤にした。

「…だ、だって、エリザベスさんは…ロマンス小説界の、女神なんだから…!」

それは、さすがに言いすぎというものだろう。


アレクシアさんの言葉を聞いて、エディがぷっと吹き出した。

「…ふふふっ、相変わらずだなあ、アレクシアは」

アレクシアさんは、今度は耳まで赤くなった。

「…ほ、本当の事ですから…っ!」

「はいはい。アレクにとっては神様みたいな存在なのよねえ」


お姉さん達にからかわれて、アレクシアさんは、ぷくっと頬を膨らませた。


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