友達のお兄さんが大貴族の跡継ぎらしいのですが、本人が信じようとしません

金色ひつじ

第1話 プロローグ

凍てつく夜の闇の中。

男は、後ろを振り返って、追手が来ない事を確認した。

おそらく今頃、リヴァーデイル公爵の城は、蜂の巣をつついた様な騒ぎになっている頃だろう。

何しろ、生まれて3か月も経っていない、公爵の跡継ぎがさらわれたのだから。


男は夜の闇に紛れて城内に潜入し、厳重な警備をすり抜けて、子供部屋に入り込むと、まんまと赤ん坊を盗み出す事に成功したのだ。

その小さな戦利品は、今、彼の腕の中で、すやすやと眠っている。

彼は、湖の岸に隠しておいたボートに乗り込むと、対岸へ向かって漕ぎ出した。


隠れ家に使う為に、使われていない納屋を見つけておいた。

中に入って、持ち込んでおいたランタンに火をつける。

乾いた床に、赤ん坊をそっと下ろす。

その時、眠っていた赤ん坊が、目を開けた。


曇りの無い大きなグレーの瞳が、男をまっすぐに見上げた。

赤ん坊は、泣き出すでもなく、ただ彼を見つめている。

男は、その無垢な瞳に、心の奥まで覗き込まれているような気がした。

自分の浅ましい姿を、見せつけられたような気がして、男ははっと我に返った。


「…駄目だ。こんな事をしてはいけない。…この子を売ったら、俺はもう二度と日の当たる場所を歩けなくなる…!」


彼は戦時中、上官からの命令を、どんな残酷な事でも平然と実行し、多くの敵の血を流して来た。

仲間からは、死神と恐れられたものだった。

しかし、戦争が終わった後、彼の手には何も残っていなかった。

そして、わずかな金と引き換えに、無垢な赤ん坊をさらう仕事を引き受けてしまった自分に、つくづく嫌気がさしていた。


「…やめるなら今しかない。…そうだ、この子は、あいつらには渡さない…!」

一旦覚悟を決めると、彼はもう揺るがなかった。


「…しかし、この子をどうすればいい?」

今から公爵家に赤ん坊を返しに行ったところで、誘拐犯として投獄され、処罰されるのがオチである。


彼は少しの間、考え込んだ。

やがて、何か案が浮かんだらしく、彼の表情が明るくなった。

「…よし、これでいこう」


男は、先程赤ん坊の産着の中で見つけたものを、ポケットから取り出した。

それは、銀で作られた印章指輪だった。

台座には、波線が、横に3本彫ってある。

真ん中の波だけが、他の2本よりも太い線で彫られていた。

「…これはおそらく印章だな。…波は、家紋か何かかな?」


これは金に換えたりしては、いけないものだ。

彼はそう思い、赤ん坊の産着に、それをしっかりと仕舞い込んだ。

赤ん坊は、相変わらず泣きもせずに、天井を見上げていた。

男はその様子を見て、ふっと笑った。


「…度胸があるな、坊主。お前は将来大物になるぞ」

彼は、赤ん坊を抱きかかえると、納屋から外に出て行った。


夜から降り出した雪は、朝になった時は、既に止んでいた。

スターリング伯爵の屋敷の前も、雪で覆われていた。

「…こりゃあ、雪かきが大変だな」

スターリング伯爵ドナルドが、白い息を吐きながら呟いた。


毎朝、決まった時間に外に出て、愛犬達とワイン畑を見回るのが、彼の日課であった。

しかし、その日は、少々勝手が違っていた。

「おいおい、どうしたんだ? お前達」

犬達が伯爵を置いて、どんどん先に進んでしまうのだ。


困惑した伯爵は、急いで犬の後を追った。

犬達は、屋敷のすぐ目の前の、大きな木の所で立ち止まり、そこに置いてあるものに鼻を近づけていた。

「こらこら、落ちているものを食べたらいかんぞ…おや、これは…」

犬達が集まっている真ん中に、毛布にくるまれた包みが置いてあった。


その中で、赤ん坊がすやすやと眠っていた。

伯爵は驚いて、赤ん坊を抱き上げた。

「…可哀想に…捨て子かな」

経済的に困窮した親が、育てられなくなった子供を捨てる。

この時代には、そう珍しくない話である。


その時、赤ん坊が目を覚まし、大きな声で泣き出した。

「よしよし、泣くんじゃない。腹が減っているのかな?」

伯爵が赤ん坊を抱いて、犬達と共に去って行くのを、物陰に隠れた男はじっと見つめていた。

彼は、満足したように頷くと、その場を静かに立ち去った。


こうして、リヴァーデイル公爵の跡継ぎは、その隣の領地の、スターリング伯爵家に保護される事となった。



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