第50章 ―― 覚えている者
時間は、前に進まなかった。
広がった。
道のように伸びたのではない。
すでに沈んだ石のあと、
湖面に残る波紋のように—
衝撃が消えたあとも、なお広がり続けるものとして。
ルネスラは、そこに在り続けた。
かつて“天”と呼ばれた場所の縁で。
だが、その言葉はもう意味を持たない。
背後に玉座はなく、
頭上に合唱はなく、
裁きも、待ってはいなかった。
あるのは、
血を流すことをやめた空だけ。
裂け目は残っていた。
傷としてではなく、
消えることを拒んだ“痕”として。
それらは光を歪め、
夜明けと黄昏を柔らかく染める。
まるで世界そのものが、
輝きに疲れてしまったかのように。
彼女は、長い時間ここに立っていた。
待っていたわけではない。
待つという行為には、
期待がある。
希望がある。
応えてくれる未来がある。
彼女には、どれもなかった。
それでも留まったのは、
去ることが裏切りに思えたから。
その下で、存在は続いていた。
もはや許可を求めることなく、
世界は自転し続ける。
予言なき文明が興り、
罰なきまま滅びる。
空に見られることなく生まれる子どもたち。
夢に囁かれる神の声はなく、
価値を測るシステムもなく、
苦しみに応えるエコーもない。
それでも—
命は、続いた。
ルネスラは、
小さく、脆く、しかし明るい世界が
静かに闇を進むのを見つめていた。
そこでは春が、
告げられることなく訪れた。
花は遅れて咲き、
ためらうように風に揺れる。
何かを覚えているかのように—
だが、教えられたことはない。
人々は笑い、
争い、
恋に落ち、
互いの心を壊す。
そのすべてが、
それを可能にした者の名を
知ることなく。
アレン・ノクティルは、
存在しなかった。
伝説としても、
警告としても、
忘れられた神としてさえも。
彼は消されたのではない。
消去には、測れる欠落が残る。
彼は—
“取り除かれた”。
現実そのものが判断したのだ。
彼を覚えていることは、
あまりにも高くつく、と。
覚えているのは、
ルネスラだけだった。
静かな回廊に響く、
少し大きすぎる足音。
小さくなることを拒んだ気配。
小さくなったほうが安全だと知りながら。
知識のためではなく、
“見られないため”に本を読んだ少年。
彼が空を見る目を、
彼女は覚えている。
畏怖ではなく—
疑いの目。
いつか裏切られると、
最初から知っていたかのように。
「言ったでしょう」
彼女は風に溶ける声で囁いた。
「優しさは、こういう場所では生き残れないって」
返事はない。
これからも、ずっと。
彼女は視線を世界へ戻した。
そこでは、雲の下に立つ子どもが
手で目を覆い、空を見上げている。
なぜか安心している。
理由はわからない。
知ることもない。
それでいい。
「もし誰かが尋ねたなら」
ルネスラは静かに言った。
「私は真実を語るわ」
沈黙が、それを聞いた。
「誰もが消えずに済むように、
自ら消えることを選んだ者がいたと」
彼女の唇が、かすかに弧を描く。
脆く。
疲れて。
本物の微笑み。
「支配するためではなく、
終わらせるために、
天を壊した男がいたと」
周囲の神域の残骸が、
ようやく崩れ始めた。
自分たちが不要だと、
理解したかのように。
「もし、その名を聞かれたなら――」
久しくなかった震えが、
彼女の声に宿る。
「私が、覚えている」
星が移ろい、
光が変わっても、
彼女はそこに在り続けた。
悼むためではない。
願うためでもない。
ただ、覚えている。
なぜなら、
すべての終わりが
見届けられる必要はないから。
ある終わりは――
背負われるためにある。
そして、
神なき世界のどこかで、
新しい朝が始まった。
知らずに。
縛られずに。
そして、ようやく――
自由に。
著者あとがき
ある物語は、
覚えられるために書かれる。
この物語は、
忘れられるために書かれた。
物語の中の世界が、
ようやく前に進めるように。
読み終えたあと、
何かが胸から消えたように感じたなら——
それは、この結末が
正しく役目を果たしたということだ。
——サジャル・アリカズタ
THRONEFALL:天が血を流した日 サジャル・アリカズタ @SajalShrivastava
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