第26章 — 囁き始める者たち

アクシオン記録区は、混乱に陥らなかった。


それが――問題だった。


代わりに、呼吸したのだ。


ゆっくりと。

慎重に。

まるで何も起きなかったふりをすることを、区全体が無言で選んだかのように。


アレン・ノクティルは、外に出た瞬間にそれを感じた。


視線。


見つめるでもなく、

指差すでもなく、

ただ――追跡している。


囁きが空気を這う。

皮膚の下を這い回る虫のように。


「今の、感じた?」

「崩壊か?」

「いや…構造的じゃない」

「じゃあ、何だ?」


アレンは歩き続けた。


コートのポケットに手を入れ。

姿勢は崩さず。

表情は空白のまま。


振り返りたい衝動が、全身を貫く。

牙を剥きたかった。

恐怖を思い出させてやりたかった。


だが、しなかった。


恐怖は――もう、到着していたからだ。


【システム通知】

【複数の記録照会を検出】

【状態:非公式関心の増加】


「遅かったな」

アレンは小さく呟いた。


区内の端末が次々と点灯する。

公共端末。

私用インターフェース。

停止しているはずの観測回線。


データは噛み合わない。

時間軸が重なり、

証言は現実と食い違う。


共通点は、一つだけ。


彼。


アレンは吊り橋の縁で立ち止まり、下層アーカイブを見下ろした。


人が多すぎる。

弱点も多すぎる。


「……檻だな、ここは」

「で、俺が揺らした」


背後で足音が止まる。


急がない。

威圧しない。


慎重な気配。


「一人でいるべきじゃない」


女の声。

冷静で、

測るような声音。


アレンは振り返らなかった。


「じゃあ、捕まえてみろ」

淡々と返す。


沈黙。


「そんなことは言っていない」


それで、ようやく彼は振り向いた。


研究用の重ね着。

認可紋。

軍でも観測者でもない。


だが――鋭い目。


「保護区を不安定化させた」

彼女は続ける。

「休眠していた記録を刺激し、人々を怯えさせた」


アレンの紅い瞳が細まる。


「それでいい」


一瞬、彼女の顎が強張った。


「危険な存在ね」


アレンは手すりに身を乗り出す。


「違う」

「俺は――不可避だ」


その声音に、彼女は無意識に一歩退いた。


アレンは背筋を伸ばし、彼女を正面から見た。


「記録が正直だったなら」

低く続ける。

「お前たちは、とっくに俺を知っていたはずだ」


彼は彼女の横を通り過ぎた。


その瞬間、

橋の灯りが一度だけ揺れた。


それだけで、彼女の息が詰まる。


二人の背後、

誰にも見えない深層記録層が、再び更新される。


削除ではない。

警告でもない。


――刻印。


そして都市の遥か上、

雲と衛星の向こう側で、


神性が――視線を落とした。


囁きは、もはや人のものではなかった。

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