第6章 ― 空が砕ける前夜

祝祭前夜は、何の演出もなく訪れた。


号砲もない。

炎で描かれる前兆もない。


ただ、

肌にまとわりつくような沈黙だけがあった。


アレン・ノクティルは外縁バルコニーに立ち、

眠ろうとしない天界を見下ろしていた。

光は高架路を滑り、

尖塔の上では紋章が静かに脈打つ。


すべてが、

訓練された落ち着きで動いている。


落ち着きすぎている。


「隠してやがるな」


【観測:感情抑制フィールド稼働中】


システムの応答は即座だった。


アレンの顎が強張る。


「空気ごと嘘を吐かせてるってわけか」


彼は視線を上げた。


空は美しかった。

淡金と深藍が幾層にも折り重なり、

星々は完全な対称性を保って配置されている。


完璧だ。

人為的なほどに。


彼はこの空が、

血を流すのを見たことがある。


そして明日、

その下で何かが壊れる。


背後で足音がした。


振り返らずとも分かる。


「ここにいるべきじゃないわ」


ルネスラの声は柔らかかった。

だが、張り詰めていた。


アレンは一瞬目を閉じ、

それから彼女に向き直った。


「そっちこそだ」


彼女は数歩離れた場所に立っていた。

儀礼装束ではなく、

簡素な衣。


付き従う者も、

浮遊する紋様もない。


ただの彼女。


しばし、

言葉は交わされなかった。


やがてルネスラが微笑む。

小さく、

疲れた、

それでも本物の笑み。


「誰にも見られずに、あなたに会いたかった」


アレンは彼女を注意深く見つめた。


周囲の輝きが、

抑えられている。


消えてはいない。

制限されている。


「共鳴を絞られてるな」


彼女の笑みが消える。


「あなたも感じたのね」


彼は一歩近づき、声を落とす。


「収束順が変えられた。

俺への導線も遮断された。

それに、これだ」


空を示す。


「何かを企んでる」


ルネスラは静かに息を吐いた。


「恐れているのよ」

「あなたでも、私でもない」


「じゃあ何を?」


一瞬の沈黙。


逃避ではない。

選別だ。


そして彼女は手を伸ばし、

アレンの袖に指先を触れた。


「もし、明日が狂ったら」

「一つだけ約束して」


彼はすぐには答えなかった。


「一人で動かないで」


アレンの唇が僅かに歪む。


「随分、残酷な頼みだな」


「分かってる」

「でも、して」


彼は彼女を見た。

本当に。


循環の女神。

均衡の象徴。


今は、

地面が崩れるのを待つ誰かのようだった。


「約束する」

「君が撤回するまではな」


束の間、

彼女の顔に安堵が走る。


その直後、

空気が変わった。


バルコニーを震わせる、

微かな振動。


力でも、

攻撃でもない。


観測。


アレンは即座に察知した。


彼女も。


「見られてるな」


ルネスラは背筋を伸ばした。


「なら、ここまでね」


彼女は一歩退き、

均衡を装着するように表情を整える。


「明日よ」

「祝祭で」


アレンは頷いた。


彼女は去り際に足を止める。


「アレン」


「何だ?」


「もし空が砕けたら」

振り返らずに言う。

「最初に音を聞いた自分を、責めないで」


彼女は去った。


バルコニーは冷え切っていた。


アレンは長くそこに留まり、

偽りの完璧さを見上げ続ける。


【警告:予測不安定性 上昇】


「上等だ」


神の石と、

幾重にも重なった法の下で、

古い何かが眠りの中で身じろぎした。


祝祭は、まだ始まっていない。


だが天界は、

すでに自分自身に嘘をつき始めていた。

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