第2章 ― 消えない囁き
天界の残酷さは、叫ばない。
囁くのだ。
アレン・ノクティルは、それを早くから知っていた。
喉元に刃を突きつけられることはない。
公然と罪を着せられることもない。
天界が好むのは「示唆」だった。
視線が一拍長く留まり、
彼が通ると会話が途切れ、
微笑みは浮かんでも、瞳には届かない。
今日も、それは変わらなかった。
訓練尖塔の外廊下。
軽やかな声が満ちる中、
アレンは歩調を変えずに進む。
大理石の床に、靴音が静かに響いた。
「……あれだ」
「……黒い翼」
「……女神が話しかけてるって」
「……どうして神が——」
言葉は完全には届かない。
だが、意図は空気に残る。
アレンは反応しなかった。
反応は、降伏だからだ。
彼は訓練場に入る。
白い翼が一斉に広がり、畳まれる。
光が羽に集まり、正確に制御されている。
上空から、監督天使たちが見下ろしていた。
鋭い眼差し。
沈黙の裁定。
「アレン・ノクティル」
空間を切り裂く声。
「はい」
「飛行制御を示せ。レベル七」
一瞬の間。
意図的な沈黙。
レベル七は不要だった。
レベル七は——晒しだ。
それでも、アレンは頷いた。
彼は開放台へと進む。
足元の結界が消え、
空が口を開く。
果てしなく、白く、容赦ない空。
彼は跳んだ。
風が身体を引き裂く。
黒い翼が広がる——白い空の中で、否応なく際立つ。
場内に、ざわめきが走る。
目立ちすぎる。
アレンは本能を抑え、
精度を優先する。
旋回、上昇、降下。
すべて計算通り。
無駄はない。
力の誇示もない。
着地。
沈黙。
賞賛ではない。
承認でもない。
評価だ。
「……可もなく不可もなし」
最後に告げられた言葉。
可もなく、不可もなし。
アレンは一礼し、隊列に戻った。
その時だった。
感じた。
視線。
敵意ではない。
好奇でもない。
観察。
彼はすぐに見上げなかった。
誰なのか、分かっていたからだ。
訓練層のさらに上。
そこに立つのは、管理者。
銀色に老いた翼。
中立を刻んだ表情。
すべてを見て、何も介入しない存在。
アレンは、その視線を受け止めた。
管理者は、頷かない。
眉も動かさない。
ただ、背を向けた。
その方が、囁きよりも痛かった。
訓練が終わり、
アレンは書庫へ向かった。
いつも通り。
だが今日は、
ルネスラが先にいた。
水晶窓の前に立ち、
空を見下ろしている。
表情は遠い。
「今日は、強く押されたわね」
彼女は振り返らずに言った。
「規定内です」
アレンは答える。
彼女は振り向いた。
怒りではない。
失望だった。
「それで正しいわけじゃない」
アレンは黙った。
ルネスラは小さく息を吐き、
一歩近づく。
腕一本分の距離で止まった。
「分類できないものを、天界は恐れる」
「ここは、すべてを分類する場所だから」
「……なら、俺は何ですか」
アレンは静かに問う。
ルネスラは、言葉に詰まった。
「……例外、ね」
その言葉が、宙に残る。
例外は守られない。
修正される。
アレンは視線を逸らした。
「例外になりたいわけじゃない」
「ただ、居場所が欲しいだけです」
しばらく、ルネスラは何も言わなかった。
そして、ゆっくりと——
慎重に——
彼の手に、自分の手を重ねた。
「あなたは、ここに属している」
「天界がまだ気づいていないだけ」
その言葉は、温かかった。
温かすぎるほどに。
その時。
書庫の遥か上空。
誰にも見えぬ視線が、細められた。
さらに深い場所で、
まだ名もない“規則”が——
静かに、
形を取り始めていた。
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