第1章 ― 白き天に立つ、黒き翼

天界は、白かった。


色としてだけではない。

意志として、思想として、白かった。


白い石で築かれた塔は影を拒み、

白い大理石の道は穢れを知らず、

空を漂う無数の翼もまた、白く、同じ形をしていた。


完全性が、延々と繰り返される世界。


その中に、

アレン・ノクティルは立っていた。


彼の翼は、黒かった。


汚れではない。

堕落でもない。

焼け跡でもない。


ただ——黒。


彼は上層広場の端に立ち、

背筋を伸ばし、両手を背後に組む。

姿勢は完璧だった。

それが許された、唯一の防御だったからだ。


それでも、囁きは消えない。


「……あれが?」

「どうしてあんな色に?」

「変わらなかったらしい」

「本当に純粋なのか?」


誰も、彼の名を呼ばない。


名は重い。

囁きは距離を好む。


アレンは前だけを見つめていた。

紅い瞳が、果てなく続く光の空を捉える。

反応しない。

反応すれば、視線が集まる。

視線は、裁きを呼ぶ。


天界の裁きは、決して平等ではない。


澄んだ鐘の音が響いた。


訓練周期、終了。


天使たちは整然と散っていく。

笑い声、会話、自然な親しさ。

アレンは広場が空いてから、静かに歩き出した。


向かう先は、いつも同じ。


書庫。


広場と違い、そこは静寂に満ちていた。

強制された沈黙ではない。

選ばれた静けさ。


水晶で刻まれた書架が無限に螺旋を描き、

記憶を保存するための紋様が淡く光る。


アレンは息を吐いた。


ここでは、誰も見ない。


彼は書架の間を進み、

すでに暗記した書の背に指を滑らせる。

歴史。循環。季節。

責任の所在を曖昧にするために書き換えられた創世記。


「また、ここに隠れているの?」


柔らかな声。


アレンは足を止めた。


すぐには振り向かない。

誰なのかは、分かっていた。


「学んでいるだけです」

「外とは、違う」


小さな笑い声。


「この区画の本は、全部読んだでしょう?」


彼は振り返った。


ルネスラが、書架の間に立っていた。

晩春のような衣——緑に金が溶けた色。

彼女の存在は、空間そのものを変える。


四季の女神。

均衡の管理者。

天界で唯一、彼を疑わずに見る存在。


「静かなのが好きなんです」とアレン。


「知ってるわ。だから私も来るの」


彼女は一歩近づき、

一瞬、彼の翼に視線を向けた。

そこにあったのは裁きではなく、純粋な関心。


「綺麗ね」と、彼女は言った。


アレンの身体が僅かに強張る。


「……違います」と彼は慎重に返す。

「普通じゃないだけです」


ルネスラは首を振った。


「違うわ。正直なのよ」


二人は、しばらく黙っていた。


水晶天井から光が降り注ぎ、

床に柔らかな影を落とす。

遠くで、再び鐘が鳴った。


沈黙を破ったのは、アレンだった。


「天界は……なぜ、こんなにも完璧である必要があるんでしょう」


ルネスラは、しばらく彼を見つめてから答えた。


「ええ。毎日、そう思っているわ」


微笑みは浮かんだ。

だが、その瞳には届かなかった。


そして、書庫の外。

誰にも見えぬ場所で、

何かが——僅かに揺れた。


まるで空そのものが、

彼らの会話に、

耳を澄ませていたかのように。

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