第4話:電脳の猿王(ハッカー・キング)

2325年12月31日、午前4時。 新年まで残り20時間を切ったネオ・オカヤマは、もはや静寂とは無縁の地獄と化していた。


空を埋め尽くす広告ホログラムは完全にONIウイルスの支配下に落ち、巨大な「鬼」の紋章が街を赤く染め上げている。 街中の防犯カメラは市民のプライバシーを暴き立て、自動販売機は無差別に中身を噴き出し、交通システムは死の交差点を生み出し続けている。


「ひどい有様だな。街全体が発熱してるみたいだ」


キビツは、電脳街「アキバ・セクター」の入り口で、降り積もる鉄の雪を払いながら呟いた。 横には、漆黒の重装甲を纏ったサイボーグ犬・シロが、センサーアイを鋭く光らせて周囲を警戒している。 そしてMOMOは、無機質な瞳で空に浮かぶ巨大な「鬼」の紋章を見つめていた。


「マスター。このセクターの通信トラフィックが、一箇所に集中しています。まるで巨大な漏斗のように」


「ああ、あそこだ。……この街の情報のゴミ捨て場にして、最大の情報集積地。『モンキー・ケイジ』」


キビツが指差したのは、かつての巨大な電波塔を違法に増築し、廃材とサーバーラックで固めた、歪な構造の超高層スラムだった。 そこは、政府の法もONIの破壊工作も届かない、独立したハッカーたちの聖域。 そしてその頂点に君臨するのが、今回仲間に引き入れるべき男、天才ハッカー『エン』だ。


「行くぞ。挨拶は済ませてある」


キビツが端末を操作すると、モンキー・ケイジの重厚な防壁ゲートが、軋んだ音を立てて開いた。 中に入ると、そこは現実と仮想が混濁した異様な空間だった。 無数のモニターが壁を埋め尽くし、そこには街中の盗撮映像、銀行の取引データ、政府の機密文書が垂れ流されている。


「……誰だ。僕の庭に土足で踏み込んでくる失礼な連中は」


頭上から、合成された高い声が響いた。 見上げると、梁の上に腰掛けた小柄な人影があった。 派手なスカジャンを羽織り、顔には猿の表情を模したデジタルARマスク。 その手元には、ARキーボードが空中に投影され、十本の指が目にも止まらぬ速さでダンスを踊っている。


「久しぶりだな、エン。……相変わらず、情報の檻に引きこもっているのか」


「おじさん……キビツか。死んだって噂だったけど、ゾンビみたいに這い出してきたわけ? それに、その後ろの……へえ、面白いね。見たことない構成のプログラムと、骨董品を無理やりサイボーグにした駄犬か」


「……ワンッ!」


シロが威嚇するように低く唸る。 エンは鼻で笑うと、空中から一本のバナナを取り出し――それはホログラムだったが――それを剥くような仕草をした。


「帰ってよ。僕は忙しいんだ。1月1日の『祭り』のために、全財産を暗号通貨に変えて、どこか別のサーバーに逃げなきゃならないんでね。この街はもう終わりだよ」


「逃げ場なんてどこにもない。……ONIは現実を書き換える。お前が愛するその電脳空間ごと、ゴミ箱に捨てられるんだぞ」


「そんなの、やってみなきゃわからないだろ? 僕は僕の腕を信じてる。おじさんの時代遅れのコードとは違うんだ」


エンの手が激しく動いた。 その瞬間、MOMOの周囲に無数の赤いレーザーサイトが結像した。 部屋中に隠されていた自動防衛ターレットが、一斉にMOMOをロックオンする。


「ここから先は、実力主義だ。おじさんが連れてるその『桃色の少年』、僕の遊び相手くらいにはなるかな?」


「MOMO。……手荒な真似はするなと言いたいが、こいつには分からせてやる必要がある。やれ」


キビツの許可が出た瞬間、MOMOの瞳が深紅に染まった。 「了解。……対ハッカー・プロトコル、展開」


MOMOが床に掌を突いた。 物理的な接触。だが、その瞬間に起きたのは、情報空間における「核爆発」だった。


モンキー・ケイジ中のモニターが、一瞬で桃色のノイズに塗りつぶされる。 ターレットの銃口が、あらぬ方向を向いて激しく回転し始めた。


「なっ……!? バックドアなしで僕のローカル・ホストに侵入した!? バカな、暗号化階層は1万層を超えてるんだぞ!」


エンが驚愕し、空中キーボードを狂ったように叩く。 「面白い! なら、こっちはどうだ! 『如意金箍棒(にょいきんこぼう)』、パケット飽和攻撃!」


エンが指を弾くと、MOMOの視界(電脳空間)に、天を突くような巨大なデータの柱が出現し、彼を押し潰そうと降り注いだ。 それは数テラバイトのゴミデータを一秒間に数億回叩きつける、物理的な衝撃に近いハッキング攻撃。


「無意味です」


MOMOの声が、電脳空間のどこからともなく響く。 降り注ぐデータの柱は、MOMOに触れる寸前、霧のように消散した。 いや、消散したのではない。 MOMOが、降り注ぐパケットの一つ一つを瞬時に解析し、自分に害のない「空気」へと書き換えてしまったのだ。


「書き換え……!? 嘘だろ、処理速度が物理限界を超えてる!」


「あなたの演算ロジックは、既読です。……エン。あなたの『猿の目』には、この世界の本当の歪みが見えていない」


MOMOの姿が、エンの背後にノイズと共に現れた。 現実世界ではない。エンがログインしているVR視界の中に、MOMOが強引に「レンダリング」されたのだ。


「っ……離れろ!」


エンが身を隠そうとするが、彼の周囲の空間が、桃色のグリッドによって檻のように固められていく。 最強のハッカーが、自分の支配するはずの空間で、逆にハッキングされ、固定されていた。


「これでおしまいです。……管理権限(管理者権限)、譲渡してください」


MOMOがエンのデジタル・マスクに手を触れる。 その瞬間、エンの視界に、キビツとクシロがMOMOに込めた「真の願い」と、ONIウイルスがもたらす「虚無の未来」の映像が、バイパスを通じて直接流れ込んだ。


「……あ……ああ……ッ!!」


エンが叫び、マスクが砕け散った。 ホログラムのマスクの下から現れたのは、まだ幼さの残る、だが知性に満ちた一人の少年の素顔だった。 彼は肩で息をしながら、目の前のMOMOを見つめた。


「……何だよ、これ。あんな鬼ごっこ、勝てるわけないじゃん。……あんなの、プログラムの暴力だよ」


「暴力ではありません。……愛です。作成者が私に込めた、この街への執着です」


MOMOは淡々と答えた。 エンは地面にへたり込み、悔しそうに髪をかきむしった。 だが、その瞳には、敗北感よりも強い「好奇心」が宿っていた。


「……信じられない。僕のシステムを、指先一つでオーバーライドした。おじさん、あんた一体、どんな化け物を作ったんだよ」


キビツが歩み寄り、エンの前にしゃがみ込んだ。 「化け物じゃない。救世主だ。……エン、力を貸せ。お前の『猿の目』がなければ、ONIの本体が隠れている座標を正確に捉えられない」


エンはしばらく黙ってMOMOとシロ、そしてキビツを見た。 やがて、彼はニヤリと生意気な笑みを浮かべた。


「……いいよ。逃げるのも飽きてたところだ。それに、その『MOMO』ってプログラム……興味がある。どうやってあんな高速でポインタを書き換えてるのか、横でじっくり解析させてもらうからね」


「交渉成立だな」


キビツが手を差し出すと、エンはその手を力強く握り返した。 その時、キビツの懐から、クシロが作成した特殊なデータ・パッチが差し出された。


「……何これ。お菓子?」


「『KIBI-Module』だ。お前の処理速度を一時的に極限まで高めるブースト・パッチ。……使い所はMOMOが指示する」


「へえ、きびだんごってわけか。古臭いセンスだけど、味は悪くなさそうだ」


エンはそれを自分の端末にロードした。 その瞬間、彼のARマスクが再起動し、以前よりもさらに複雑な情報を処理し始めた。


「よし、おじさんたち。まずはONIの通信を逆探知して、奴らの本拠地……『鬼ヶ島』の正確な位置を割り出してやるよ。……あそこは浮遊ラボだから、常に座標を変えてるんだけど、僕の目からは逃げられない」


「助かる。……これで、牙と目が揃った」


キビツは、モンキー・ケイジの窓から見える赤く染まった空を見据えた。 12月31日、午前6時。 空には、かつてないほど巨大な雷鳴が轟いていた。 それはONIが最終段階に入った合図。


「残るは、あそこへ飛び込むための『翼』か」


「キジのことね。……クシロが今、最終調整をしてるはずだ」


四人は、モンキー・ケイジを後にした。 少年、犬、そして生意気なハッカー。 異質な三人と一人の男が歩むその背中には、かすかな希望の光が宿っていた。


街は死に向かっている。 だが、物語はここから加速していく。


第4話「電脳の猿王」 完

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