第3話:鋼鉄の忠義(アイアン・ロイヤリティ)

2325年12月30日。 世界が終焉へと向かうカウントダウンは、残り24時間を切ろうとしていた。


ネオ・オカヤマの空を覆う酸性雨は、今や毒々しい緑色に変色し、摩天楼の頂に座す「鬼ヶ島ラボ」から放たれる不気味な赤い電波が、市民の脳内に直接ノイズを叩き込んでいた。 街のあちこちで、電子回路を暴走させたサイボーグたちが虚空に向かって叫び、秩序は完全に崩壊していた。


そんな喧騒を遮断したクシロの地下工房には、低く重苦しい機械の駆動音だけが響いていた。


「……ねえ、シロ。痛いの? 苦しいの?」


クシロの声は、震えていた。 彼女の目の前の手術台には、一匹の老犬が横たわっていた。 柴犬の血を引く、この街では珍しい純血種の老犬、シロ。 かつてはクシロの影のように寄り添い、彼女が最も孤独だった時代を支えてくれた唯一の「家族」だ。


だが今、シロの瞳には光がなく、呼吸は浅く、途切れがちだった。 老衰。そして、街に蔓延するウイルスの副産物である「電磁波汚染」が、その小さな生命を限界まで削り取っていた。


「……マスター・クシロ。対象の心拍数は毎分28まで低下。脳波の減衰を確認。……あと15分で、全ての生命活動が停止します」


背後に立つMOMOが、感情を排した声で冷酷な事実を告げる。 彼の瞳には、シロの体内時計がゼロに向かって刻まれるホログラムが映し出されていた。


「わかってる……わかってるわよ、そんなこと!」


クシロが叫び、手術台の縁を拳で叩いた。 彼女の手は、最高級のメンテナンスを受けているにもかかわらず、激しく震えている。 エンジニアとして、彼女は何度も機械の心臓を繋ぎ直してきた。だが、消えゆく「魂」を繋ぎ止める術は、彼女の持ち合わせる工具の中にはなかった。


そこへ、重いシャッターを開けてキビツが入ってきた。 彼のトレンチコートからは雨水が滴り、その表情にはかつてないほどの覚悟が刻まれていた。


「クシロ、時間だ。……シロを、『再構築(ビルド)』する準備を始めろ」


キビツの言葉に、クシロは弾かれたように顔を上げた。


「本気なの……? あんなに機械を嫌っていたこの子を、冷たい鉄の塊に変えるっていうの!? それは、あの子を殺すのと同じじゃない!」


「死なせるよりはマシだ。……それに、俺たちはあいつの意思を聞いていない」


キビツは無言でシロに近づくと、その痩せこけた頭を大きな義手でそっと撫でた。 シロはかすかに目を開け、主人の感触を確かめるように、鼻先をひくつかせた。


「シロ。……お前に最後の任務を与えたい。MOMOの『牙』となり、この腐った街を救うための盾になってくれ。……もし嫌なら、このまま俺の手の中で眠れ」


キビツはコートの内側から、銀色のニューラル・コネクタを取り出した。 それは、生物の意識を一時的にデータ化し、機械体へ転送するための禁忌のデバイス。


キビツがコネクタをシロの首筋に近づけたその時だった。 弱りきっていたはずのシロが、最後の手向けと言わんばかりの力で、キビツの義手をペロリと舐めたのだ。


その瞳には、恐怖ではなく、どこまでも深い信頼の色があった。 「まだ、あなたたちを助けたい」――言葉にならないその叫びが、部屋を満たした気がした。


「……シロ」


クシロが絶句し、涙がその美しい頬を伝い落ちた。 彼女は自分の震える手をもう片方の手で抑え込み、エンジニアとしての顔を取り戻した。


「わかったわ。……最高にイカした『体』を用意してある。……私の愛犬を、ただの機械(ガラクタ)にはさせない」


クシロがコンソールへ飛びつき、地下工房の全ての電力が一箇所に集約された。 床下からせり上がってきたのは、漆黒のセラミック装甲と重火器を内蔵した、四足歩行型の重戦闘用サイボーグ・フレーム『ケルベロス・ユニット』。


「MOMO。お前の演算領域を30%開放しろ。シロの意識データを補完し、人格(パーソナリティ)を維持するためのバックアップに回せ」


「了解、マスター。……ニューラル・リンク、確立。意識パケットの転送を開始します」


MOMOがシロの頭部に手を添えると、桃色の光がコードのように走り、老犬の意識を吸い上げていった。 モニターには、シロの記憶の断片が高速で流れる。 クシロと散歩した雨上がりの道、キビツがくれた安物の干し肉の味、そして、二人を守るために吠えた若き日の誇り。


「シロ、逝かせないわ……絶対に戻ってきて!」


クシロの叫びとともに、意識転送(ソウル・トランスファー)の最終段階が実行された。 シロの生体反応がゼロになり、モニターの波形が一直線に横たわる。 一瞬の、永遠のような静寂。


そして――。


漆黒の戦闘フレームが、ガチリ、と音を立てて駆動した。 背中のガトリング砲が自動でマウントされ、四本の脚が床に深い爪痕を刻む。


人工筋肉が膨張し、排熱ダクトから真っ白な蒸気が噴き出した。 カメラアイが真っ赤に発光し、左右に激しくスキャンを繰り返す。


「……シロ?」


クシロが恐る恐る呼びかける。 その巨体は、かつての小さな柴犬とは似ても似つかない、殺戮のために設計されたモンスターそのものだった。


戦闘フレームはゆっくりとクシロの方を向いた。 そして、重機のような金属音を立てながら、不器用に首をかしげた。


「ワンッ!」


スピーカーから出力されたその声は、合成音声でありながら、紛れもなくシロの、あの明るい鳴き声だった。 巨体がクシロに歩み寄り、冷たい鉄の鼻先を、彼女の手に優しく押し付けた。


「……ああ、シロ! よかった、本当によかった……!」


クシロは鋼鉄の体に抱きつき、声を上げて泣いた。 シロは尻尾の代わりに、後部にマウントされたセンサー・アンテナを激しく振って応えた。


「適合率98.2%。……信じられません。生物としての生存本能が、プログラムの欠損を全て補完しています」


MOMOが驚きを露わにする。 彼にとって、これほど不合理で、それでいて強力なエネルギーは、計算式のどこにも存在しないものだった。


「これが『忠義』ってやつだ。……MOMO、よく見ておけ。これが、お前に足りない最後のパーツだ」


キビツは満足げに頷き、愛用の重リボルバーを腰に差した。


「シロ、いや、コード・SHIRO。お前の主人はMOMOだ。あいつを守り、あいつの行く手を阻む全てを、その牙で噛み砕け」


シロはMOMOの隣へ歩み寄り、静かに腰を下ろした。 少年の姿をした究極のプログラムと、鋼鉄の体を得た老犬の魂。 二つの存在がリンクした瞬間、MOMOの視界には、自分を支える強固な「防壁」と、敵を撃ち抜く「矛」の感覚が流れ込んできた。


「マスター。……力が、溢れています。これなら、勝てる」


「まだだ。牙は揃ったが、まだ『目』と『耳』が足りねえ」


キビツは地下室のモニターを切り替えた。 そこには、ネオ・オカヤマの電脳街を騒がせている、猿のARマスクを被ったハッカーのシグナルが点滅していた。


「次は、あの生意気な猿(ハッカー)を釣り上げる。……行くぞ、野郎ども。鬼退治のメンバーを集める時間は、あと少ししかねえ」


外に出ると、雨は雪へと変わっていた。 2325年12月30日、深夜。 鉄の雪が降り積もる街へ、少年と鋼鉄の獣、そして一人の男が踏み出していく。


その背中を、工房の入り口でクシロがじっと見送っていた。 彼女の手には、シロがかつて着けていた、古びた赤い首輪が握りしめられていた。


「絶対に、生きて帰ってきなさいよ……みんな」


街のネオンが、彼らの影を長く引き伸ばす。 その先には、不気味に赤く輝く「鬼ヶ島」が、獲物を待つ怪物の口のように開いていた。


第3話「鋼鉄の忠義」 完

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