上り坂、ラストスパート

 夜の二十二時。康太の部屋は机のスタンドだけが白く点いていて、窓の外は黒いまま動かない。椅子に深く座り、肘の下に英語の長文、左手側に数学の問題集、右端に赤シートと単語帳。机の角にはマグカップが置かれている。

 紙の上を走るシャーペンが、同じ行を何度もなぞる。線が太くなり、消しゴムの粉が掌にまとわりついた。


 共通テストまであと三日。頭の中で数字だけが先に立って、ほかの言葉を押しのける。

 康太は自分の学力より一段高い学校を志望に据えた。模試の判定は、回によってBだったりCだったりした。悪くはないと言われる札で、それでも確かに隙間がある。


 進路指導室の机の匂いまで思い出す。教師はプリントの端を指で押さえて、淡々とした声で言った。


「十分狙える」


 その言葉だけが、いまも背中の内側に残っている。信じた、というより、そこに乗るしかなかった。やりたいことがある。そのために行く場所を、自分で選んだ。

 だから、止まれない。


(絶対受かる)


 胸の奥で言い切るたび、喉がひゅっと狭くなる。声にしたら崩れそうで、息だけが速くなる。康太は唇を噛んで、視線を問題に戻した。

 英文の設問。本文の主張。選択肢の微妙な言い換え。分かっているはずのところで、指が止まる。舌が乾いてきて、康太は椅子の背にもたれかけ、すぐに戻した。もたれる一秒が惜しい。


 スマホの画面は見ない。机の上の小さなデジタル時計だけで時間を追う。二十二時一四分。次に見たときは二十二時二八分。数字が変わったぶんだけ、何かを積み上げられた気がして、指先が落ち着かない。

 休んでいる間に、顔も知らない誰かはページをめくっている。自分が寝返りを打つ間に、誰かは計算を終えている。そう思うと、布団の重さが想像だけで肩に乗った。


 ドアの向こうで足音が止まった。ノックは控えめで、二回。返事をする前に、ドアが少し開く。廊下の明かりが細く差して、机の白い光に溶けた。


「入るよ」


 母親がトレイを抱えて立っていた。小さな器と、包んだままのスプーン。湯気が薄く揺れて、甘い匂いが部屋に入ってくる。

 康太は頷いて、ノートの端を押さえたまま少しだけ机の奥を空ける。母親は慎重にトレイを置き、机の上を一度見回した。散らばったプリント、赤ペンのキャップ、消しゴムの粉。机の上だけで康太の今日が分かる。


「根を詰めすぎじゃない? 体調、大丈夫なの?」


 康太はシャーペンを握り直した。指先に力が入って、関節が白くなる。


「大丈夫に決まってるだろ。今やらないでいつやるんだよ」


 声が自分の想像より少し高く跳ねて、部屋の壁に当たって戻ってきた。母親の目が一度だけ瞬き、口元がほんの少し固まる。康太はそこから先を見ないふりをして、視線を落とした。ノートの行の上に、さっき書いた文字が滲んで見える。

 寝不足が効率を落とすことも、風邪が本番に直撃することも、頭では何度も反芻した。けれど椅子から立つ理由が、今夜に限って見つからない。


 母親は何か言いかけて、唇を閉じた。トレイの縁に指を揃え、肩を少しだけ下げる。


「……うん。じゃあ、せめてこれ食べて。温かいうちに」


 言い方を丸めたのが分かって、康太の胸の奥がきしんだ。謝る言葉が舌の上に乗るのに、外へ出ない。出したら、自分の中の張り詰めたものが切れてしまいそうだった。

 母親の背中がドアの方へ向く。引き戸が閉まる直前、母親は振り返らずに言った。


「無理だと思ったら、声かけてね」


 最後の「ね」が、頼みというより合図みたいに残る。康太は返事の代わりに、ノートの端を指で押さえ直した。指の腹が紙に吸いつく。

 ドアが閉まると、部屋の音が一段小さくなった。


 トレイの器から立つ湯気が、スタンドの光をぼやかす。康太はそれを見ないふりをして、次の問題に移った。


(今だけ、今だけ頑張る。でなきゃ、スタートラインにも立てない……)


 自分に言い聞かせる文は、いつも最後が擦れていく。だから、手を動かす。動かしていれば、言葉の穴を塞げる気がした。

 数学の記述。条件の読み落とし。式の置き方。分かっているのに、先に手が走る。紙がきしむほど筆圧が増えて、シャーペンの先が紙に刺さった。


 ぱきん、と小さく折れる音。

 そのまま一秒、康太は動けなかった。折れた芯の黒い点だけが白い紙の上に残っている。


 カチカチ、とノックする音が続く。リズムが乱れて、止まって、また鳴る。芯が出ない。出てもすぐ折れそうで、康太は一度シャーペンを置いた。掌の汗が冷えて、机の木目がやけにくっきり見える。


 隣に置かれた夜食に、ようやく視線が落ちた。器の中で白い湯気がまだ細く立っている。母親が「温かいうちに」と言った声が、遅れて胸に触れる。

 康太はスプーンを取った。指先が少し震えて、金属が器に当たって小さく鳴る。


 ひと口だけすくって口に入れると、甘さが舌に広がり、喉の奥がゆっくりほどけた。

 その瞬間だけ、息が深く入る。胸のあたりの固さが、紙一枚ぶんだけ薄くなる。


 椅子に座り直し、折れた芯の欠片を指でつまんで捨てる。新しい芯を補充して、ノックを一回。今度は静かに先端が出た。

 康太はノートに向き直った。視界の端で、湯気が少しずつ薄くなる。二十二時四十二分。まだ夜は長い。

 窓の外の黒に、遠くの車の灯りが一筋だけ滑った。康太はその光を追わず、問題文の最初の一行をゆっくり読み直す。

 明後日、シャーペンを置く瞬間まで、自分の手を止めない。そのために、いまは一問ずつ、息を切らさずに積む。


 ページをめくる音が、部屋の中で小さく響いた。


 次の大問に入ったところで、視界の端がにじんだ。文字が増えたわけじゃないのに、行と行の間が妙に遠い。康太は眉間を指で押さえ、椅子を少し後ろへ引いた。床に置いた鞄に踵が当たり、鈍い音がした。

 眠気は来ない。代わりに、まぶたの裏が熱い。目の前の紙に向き直るたび、何かが削れていく気がして、康太はペンケースを開けた。蛍光ペンが並び、消しゴムが小さく丸まっている。机の上に貼った付箋には、今日やる範囲と、終わったところに引いた細い線。

 線が増えても、胸の奥のざらつきは減らない。


 志望校を決めた日を、ふいに思い出す。春先の雨で、靴下が濡れたまま帰ってきた。玄関で靴を脱ぎ、制服のまま自室に入って、パンフレットを広げた。ページの写真は明るくて、そこだけ別の空気だった。

 何がやりたいのか。うまく言葉にできないのに、胸のどこかが勝手に決めていた。ここに行って、あの講義を受けて、あのサークルに顔を出して、自分の知らない人たちの中で揉まれてみたい。地元のままでも暮らしていけるのに、わざわざ遠くへ行きたい。


 家族に話したとき、母親は少しだけ目を丸くした。反対はしなかった。ただ、台所の包丁を洗いながら「大変だね」とだけ言った。その『大変』が、自分に向けたものなのか、家の計算なのか、分からないままここまで来た。

 模試の結果が返ってきた日は、教室の窓が開いていて、紙が風でめくれた。判定欄は、Bだった回もあればCだった回もある。どれも、背中を押すには心許なく、諦めるには惜しい位置だった。康太は答案を折りたたんで鞄に入れ、放課後に進路指導室へ行った。


 教師は、康太の顔を見てからプリントを開いた。笑いもしないし、励ます声も過剰じゃない。ただ、淡々と、何度も見てきた線の引き方で言った。


「今のままでも届く。足りないところを、ここ三週間で詰めれば十分狙える」


 その「十分」が、どれくらいの幅なのか。聞き返せなかった。聞いた瞬間、幅が数字になって、自分の逃げ場まで測られてしまいそうだったから。

 康太はシャーペンを握り直した。今の自分の指が、頼りないほど細く感じる。


 机の上のマグカップに手を伸ばすと、中身はぬるくなっていた。飲み干してから立ち上がり、椅子を押し込む。床板が小さく鳴った。


 二十二時五十分。康太は空のマグを持って廊下へ出た。居間の方から、テレビの消えかけの光が壁に滲んでいる。音量は絞られていて、台詞だけが遠くで揺れていた。

 台所の明かりが点いている。母親がシンクの前に立ち、さっきのトレイを洗っていた。水の音が一定で、康太の足音だけがそこに混じる。


「……さっきは、言い方きつかった。ごめん」


 言葉が出たのは、喉の奥が夜食の甘さで少しだけ柔らかくなっていたからだ。母親は手を止めずに、うなずいた。


「分かってるよ。康太が今、ぎりぎりで走ってるのも」


 水音が止まり、蛇口が閉まる。母親はタオルで手を拭きながら、康太の顔を見た。目の下の影を一度だけ確かめるみたいに。


「だからね、寝るのも勉強のうちだってことは忘れないで。三日後に立っていられなかったら、今の頑張りがそのまま残らないでしょう」


 母親の言葉は柔らかいのに、芯が硬い。康太は目を逸らして、冷蔵庫の上に置かれたカレンダーを見た。赤で丸をつけた日が、もう目の前にある。


「分かってる。でも、止めたら……怖い」


 口から落ちた短い言葉のあと、肩が少しだけ下がった。母親は息を吐き、康太の前にコップを差し出した。


「怖いのは、ちゃんとやろうとしてる証拠だよ。康太は、やりたいことがあるんでしょう」


 その言い方に、進路の話をした夜の台所が重なる。母親は康太の返事を待たず、棚から小さな薬箱を取り出した。


「喉、乾いてない? 乾くと集中できないから、のど飴も持っていきなさい。あと、明日の朝、学校へ行く前に玄関のところで一回だけ深呼吸していきな。冷たい空気を吸うと、目が覚めるから」


 生活の言葉は具体的で、次にやる動きが決まる。康太はコップの水を一口飲み、喉を通る冷たさでやっと自分の体がここにあると分かった。


「ありがとう。明日の朝、出る前に一回だけやってみる」


 短い返事になりかけたのを、康太は自分で引き戻した。母親は小さく笑って、頷いた。


「うん。それでいい。勉強は逃げないけど、康太の体は一個しかないから」


 居間のテレビが、CMに切り替わる音がした。康太はコップを置き、台所の床を踏みしめてから廊下へ戻る。部屋のドアノブを握る手が、さっきより少しだけ軽い。


 二十三時。部屋に戻ると、机のスタンドの白い円が待っていた。ノートの開いたページ、折れた芯の跡、夜食の器。全部が同じ場所にあるのに、呼吸だけが少し変わっている。

 康太は椅子に座り、問題文の最初に戻った。条件を声に出さずに追い、式の置き場所を一つだけ決める。ノックの音はもう鳴らさない。芯を折らないように、紙に触れる強さを測り直す。


 窓の外の黒はまだ深い。けれどその奥に、試験会場の白い机が浮かぶ。答案用紙の端を押さえる左手。シャーペンを動かす右手。そこまで辿り着くために、いまは一行ずつでいい。

 康太はページの隅に小さく丸をつけ、次の行へ進んだ。スタンドの光の中で、芯の影がまっすぐ伸びていった。

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