七草粥奮闘記

 一月七日、夕方の台所は、まだ正月の名残を薄く引きずっていた。カレンダーをめくった紙の音は乾いていて、部屋の空気だけが少し甘い。鏡餅の空き箱を片づけきれずに棚の上へ押し込み、祝い箸の袋だけが引き出しの奥に残っている。そういう小さな取り残しが、日常へ戻る速度を遅くする。


 その日、保育園から帰ってきた娘の芽依が、玄関で靴を脱ぐなり言った。


「ねえママ、七草粥たべたい!」


 声は弾んでいた。五歳の声は、弾むとそのまま身体全体になる。上着も脱がずに、リュックを背負ったまま居間へ入ってくる。


「……ななくさがゆ?」


 母親の沙和は、聞き返しながらフリーズした。七草粥。聞いたことはある。テレビの季節のコーナーで、さらっと流れるやつ。お正月の終わりの頃に食べるもの。胃に優しい。無病息災。なんとなくのイメージだけはある。


 けれど、沙和は自分が食べた記憶がない。実家でも出たことがない。正月の翌週には、むしろカレーとかチャーハンとか、いつもの味に戻っていた。


「うん! せんせいがね、きょうは『ななくさがゆのひ』っていってた!」


 芽依はリュックを床に落とし、手を洗いに行く。蛇口をひねる音がして、歌みたいな鼻歌が混じる。沙和は台所のカウンターの向こうで、ゆっくり息を吐いた。


 できるのか、それ。


 材料は何? 七草って何? そもそも粥って、米を煮るだけだよね? 塩? 味付け? うちの子は味が薄いと食べない……いやでも、芽依が「食べたい」って言ったんだ。言ったのに、出せなかったら、なんか負けた気がする。勝ち負けじゃないのに。


 沙和はスマホを手に取った。画面を開くと、通知が溜まっている。仕事のグループチャット。未読の数字。目を逸らして、検索窓に打つ。


 『七草粥 作り方』

 『七草 種類』

 『味付け 塩』


 検索結果がずらっと出る。写真で見る七草は、どれも細い緑。見たことあるような、ないような。ページを開くと、一般的な七草の名前が並ぶ。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ。呪文みたいだ。幼稚園児が覚える『春の七草』って、あれか。芽依は、もうそれを教わってきたのか。五歳ってそういうことを、突然覚えてくる。


「ママ、ななくさがゆ、たべるの?」


 手を拭いた芽依が台所に来て、目を輝かせている。沙和は笑顔を作った。笑顔は作れる。問題は、七草粥だ。


「食べよう。……スーパー行こっか」


「やった!」


 芽依は勝利みたいに拳を握った。沙和は上着を掴みながら、頭の中で計画を立てた。七草はたぶんセットで売っている。最近はパックのやつがあるって、どこかで見た。


 米はある。お粥は炊飯器でもできるけど、今日は時間がある。鍋でやってみる。味付けは……塩だけって書いてある。塩だけで、芽依が食べるだろうか。


 いや、でも食べたいって言ってる。子どもが「食べたい」って言う時って、味じゃなくて気分かもしれない。行事の力。保育園の先生の力。芽依は『やりたい』に近い。


 夕方のスーパーは、いつもより人が多い。仕事帰りの人、部活帰りの学生、買い物かごを二つ持つおばあさん。暖房の匂いと惣菜の匂いが混ざり、入口のマットが湿っている。芽依はカートの子ども席に座り、足をぶらぶらさせていた。


「ななくさ、どこ?」


「どこかなあ?」


 沙和はスマホで検索しながら、野菜売り場へ向かった。野菜売り場には、正月明けの少し寂しい感じがある。みかんが減り、代わりに苺が並び始める。大根が大きく鎮座して、白菜が半分に切られている。


 七草セットは、案外すぐ見つかった。小さな透明パックに、刻まれていない草たちが束になって入っている。「七草がゆ用」と書かれたシール。値段は思ったより高くない。助かった。沙和はカートに入れ、芽依に見せた。


「これだって」


 芽依が身を乗り出す。


「これがななくさ?」


「たぶん……そう」


「くさじゃん!」


 芽依が笑う。沙和も笑った。草だよね、と心の中で突っ込みながら、次は米売り場へ行く必要がないことに気づく。米は家にある。


 あとは、だし。だしって必要? 検索結果には基本は塩って書いてある。けれど、塩だけって不安だ。沙和はだしパックの棚の前で立ち止まった。顆粒だし。かつお。昆布。いりこ。芽依はだしの味が好きだ。味噌汁を飲むと、だしの香りで落ち着く顔をする。ここは保険として買っておく。


「ママ、これもかうの?」


「念のため」


 念のため、という言葉が増えるときは、だいたい自信がない。自信がないままでも進む日が、大人には多い。沙和はだしをカゴに入れて、醤油の棚の前で足を止めた。


 醤油は家にある。でも、もし味が薄かったら? 塩だけで芽依が箸を止めたら? そこで醤油を入れるのは邪道? そもそも七草粥って、味付けを濃くするものなの?


 沙和はスマホで『七草粥 味がない』と検索した。出てきたのは、『塩加減が大事』『だしを入れる家庭もある』『雑炊風にアレンジ』という文字列。救いみたいに見えた。アレンジ、ありなんだ。


 沙和は安心して、卵も一パック買った。雑炊にするなら卵があった方がいい。芽依は卵が好きだ。


 家に帰る頃には、空がもう暗い。台所の照明をつけると、白い光がまな板を照らした。エプロンをつける間もなく、芽依が椅子を引いて台所を覗き込む。


「ママ、いっしょにやる!」


「包丁危ないから、洗うの手伝って」


「うん!」


 芽依は張り切って手を洗い、七草パックを抱えるように持ってきた。透明の袋の中の草は、思ったより瑞々しい。葉の先に水滴がついている。匂いを嗅ぐと、青い匂いがした。春の匂いというより、冬の冷たい青。


 沙和は七草を一つずつ取り出し、ざっと水で洗った。小さい土が少し出る。芽依がそれを見て「つち!」と声を上げる。


「草だもんね」


「つちついてるの、ほんものだね」


 芽依は嬉しそうだ。ほんもの。子どもにとって、ほんものは価値がある。味よりも、ほんものを触っていることが大事なのかもしれない。沙和はそのことに少しだけ救われた。


 米を研ぐ。研ぐ水が冷たい。米の粒が指先に当たって、冬の冷えを思い出す。鍋に米と水を入れ、火にかける。お粥は水の量が多いから、吹きこぼれやすい。沙和は火を弱め、鍋のそばでタイマーをセットした。


 七草は、刻む。包丁を握るとき、芽依が少しだけ離れた。危ないと分かっている顔。刻む音がまな板に響く。トントン、と軽い音。葉が薄いので、音が柔らかい。


 湯気が出てきた。米が踊り始める。白い泡が鍋の縁に集まる。沙和は木べらでゆっくり混ぜ、火をさらに弱めた。お粥は焦がすと台無しになる。ここだけは慎重になる。慎重になると、逆に不安が頭を出す。


 味付け、どうする。


 鍋の中は、米と水だけ。そこに塩を入れるだけで完成。完成なのに、その完成が怖い。薄い味で芽依が残したらどうしよう。芽依が「まずい」と言ったらどうしよう。大人の「まずい」は遠慮が混じるけれど、子どもの「まずい」は真実の形をしている。


 沙和は、まず塩をひとつまみ入れた。少なすぎる気がして、もうひとつまみ。木べらで混ぜて、味見のために小さく掬った。湯気が鼻に当たり、目が少し潤む。口に入れる。


 ……味がない。


 正確には、米の甘さはある。水の中でほどけた米の、ぼんやりした甘さ。でも、塩気が薄い。薄いというより、輪郭がない。舌の上で広がって、どこにも引っかからず消える。これを『優しい味』と呼ぶ人もいるのだろう。けれど、沙和は自信がない。優しい味と、味がないの境目が分からない。


「ママ、おいしい?」


 芽依が覗き込む。期待の目。沙和は曖昧に笑った。


「うーん……ちょっと、むずかしい」


「むずかしいってなに?」


 難しいって何。大人の言葉は時々ずるい。逃げ道に使える。沙和はそのずるさに少しだけ罪悪感を覚え、すぐに手を動かした。


 検索。七草粥 塩加減。

 画面には『塩は小さじ1/2〜』みたいな数字が並ぶ。小さじ。……鍋の量に対して? 今の鍋は、二合分の米をお粥にしている。水は多い。塩は増やしてもいいはず。でも、増やしすぎたら戻せない。


 沙和はもう少し塩を入れた。味見。まだ薄い。入れる。味見。ようやく塩気が出る。けれど、今度は塩の味になりそうな気配がある。米の甘さと塩が直でぶつかっている。まとまりがない。七草を入れる前にこの状態なら、七草を入れたらさらに青さが出て、余計にぼんやりするかもしれない。


 沙和は一度、鍋を見つめた。湯気が立ち、白い泡が消え、また出る。鍋の中の時間はちゃんと進んでいるのに、自分だけが足踏みしている。


 仕方ない。アレンジ。


 沙和はだしパックを掴み、鍋に少しだけ顆粒だしを入れた。さらさらと落ちる粉。混ぜる。味見。……あ、輪郭ができた。米の甘さに、旨味が乗る。塩気も、旨味に包まれて丸くなる。


「おお」


 思わず声が出る。芽依が目を輝かせる。


「おおってなに!」


「うまくいった気がする」


 沙和は醤油をほんの少し、鍋の縁から垂らした。色が少しつく。雑炊風、と頭の中で言い訳する。言い訳じゃない。家庭料理だ。家庭料理は、食べる人の顔に合わせるものだ。


 七草を入れるタイミングも悩んだが、検索すると『最後にさっと入れる』とある。煮すぎると色が悪くなるし、香りも飛ぶ。沙和は火を弱めたまま、刻んだ七草を鍋にぱらぱら入れた。緑が白い粥に散り、春の小さな島みたいに浮く。


 混ぜると、緑が少しだけ沈む。湯気の中に青い匂いが混ざる。そこへ、卵。溶いて、回し入れる。白と黄色がふわっと広がる。雑炊風が、目に見える形になった。


「できたよ」


「わあ!」


 芽依が椅子から跳ねそうになる。沙和は茶碗に盛り、ふうふう冷ましてから差し出した。芽依は両手で受け取り、すぐに口へ運ぶ。熱いのに、興奮が勝っている。


「……おいしい!」


 芽依の声が、台所の天井に跳ねた。沙和の肩から力が抜ける。抜けると、急に足がだるくなる。だるいのに、嬉しい。


「おいしい? 味する?」


「する! なんか、あったかいあじ!」


 あったかい味。味の説明として正しいかどうかは分からない。でも、芽依の中では正しいのだろう。だしの旨味と醤油の香り、卵の甘さ、七草の青さ。それが混ざって、芽依の言う「あったかい」になる。


 沙和も自分の茶碗を持ち、味見のつもりで一口食べた。さっき味気なさとは違う。だしが背骨になり、醤油が影になり、七草が呼吸になる。雑炊風、と自分で言い訳したのに、意外とちゃんと七草粥の顔をしている気がする。これでいい。家庭の七草粥は、こういうのでいい。


「ママもたべる?」


 芽依は夢中で食べている。七草の葉が口の端に付く。沙和が指で取ってやると、芽依は笑ってまた食べる。五歳の食欲は、安心すると一気に伸びる。さっきまで「七草粥!」と叫んでいたのが嘘みたいに、黙々と食べる。


 沙和は、台所の隅に置いた七草のパックのラベルを見た。そこには小さく、七草の名前が書いてある。呪文みたいな文字列。読んでみようかと思ったが、今はやめた。芽依が嬉しそうに食べている方が、ずっと大事だ。


「ねえママ、ななくさがゆって、びょうきにならないやつでしょ?」


 芽依が口の中をもぐもぐさせたまま言う。言葉が少し曖昧になるのも可愛い。


「そうだね。元気に過ごせますように、って」


「じゃあ、パパもたべなきゃ」


 沙和は笑った。夫はまだ帰っていない。仕事始めで遅くなると言っていた。帰ってきたら温めて出そう。たぶん夫は「七草粥? 急にどうした」と言うだろう。その時に、芽依が今日のことを誇らしげに話す顔が浮かぶ。


「パパの分も残しとく?」


「のこす!」


 芽依は元気よく頷き、また食べる。食べるスピードは落ちない。茶碗の底が見え始める。最後の一口を食べ終えると、芽依は満足そうに息を吐いた。湯気みたいな息。


「ごちそうさまでした!」


 声が大きい。五歳の「ごちそうさまでした」は、ちゃんと世界に響く。沙和は「おそまつさま」と返しながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


 七草粥を食べたことがない母親が、調べながらスーパーで材料を買って、味がないことに戸惑って、だしと醤油で雑炊風にして、子どもが喜ぶ。


 それだけの話なのに、今日が少しだけ特別になった気がした。正月が終わって、日常へ戻る途中に、芽依が一つだけ『行事』を拾ってきた。それを沙和が受け取って、形にした。その連鎖が、家の中に小さい灯りを作った。


 鍋の中には、少しだけ残った七草粥。緑が白い中に沈み、卵がふわっと浮いている。だしの匂いがまだ立つ。沙和は鍋の蓋を閉め、残りを冷蔵庫に入れた。


 芽依が椅子から降りて、沙和のエプロンの裾を掴む。


「来年もたべたい!」


 来年。来年という言葉を、五歳が軽々と言う。軽々と言うのに、沙和の胸にはちゃんと重さがある。来年も。そう言えることが、嬉しい。


「うん。来年も作ろうね」


 沙和が言うと、芽依は嬉しそうに笑って、居間へ走っていった。床を小さな足音が跳ねる。台所に残った沙和は、鍋の蓋の上に手を置いた。温かい。温かいのに、さっきの不安が少しだけ遠い。


 味がないって思ったあの瞬間も、たぶん来年には笑い話になる。『最初、味がないって焦ったんだよ』って言ったら、芽依はきっと『えー』って笑う。夫も笑う。その笑いの中に、今年の今日が小さく残る。


 沙和は水道で手を洗い、指先のだしの匂いを流した。流しても、台所の空気にはまだ旨味が残っている。七草の青い匂いも、ほんの少し。


 窓の外は暗い。けれど、家の中は温かい。元日の華やかさとは違う、地味な温かさ。雑炊風の七草粥みたいな温かさだ。


 沙和は布巾で手を拭きながら、心の中で一度だけ言った。


 今日も、なんとかできた。

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