MRoの短編集(兼、練習帳)
MRo
お正月、助勤巫女さんの一日
一月一日、午前五時。
社務所の戸を開けた瞬間、冷気が袖口から入り込んで、指先がきゅっと縮んだ。境内はまだ暗く、砂利を踏む音だけがやけに大きい。拝殿の屋根の輪郭は夜と同じ色をしていて、提灯の灯りだけが足元をほどく。
十九歳になって初めて応募した助勤巫女。受かった時は嬉しくて何度も親に話した。
今日がその勤務の日だった。
桜花は、息を白くしながら裏手の水場へ回った。柄杓の水は氷みたいに冷たい。手を入れると痛いのに、指を引くともっと痛い。二度、三度。形だけでも清める。頬に触れる風が薄い刃みたいで、黒髪の長い毛先が背中に貼りつく。
社務所ではすでに先輩の巫女たちが動いていた。白衣の袖が擦れる音、紐を結ぶ音、机に札束を置く乾いた音。
甘酒の鍋が小さく湯気を立て、米の匂いがほのかに混ざる。
「桜花ちゃん、髪まとめといてね」
「はい」
返事は短く、でも声は落とさない。緊張で喉が硬くなる前に、声を出しておく。
桜花は鏡の前で髪を二つに分け、ひとつに束ねる。結び目が痛くない位置を探して、指先で少しずつずらした。
外から、もう足音がする。砂利を踏む音が一つ、二つではない。
笑い声が混ざり、誰かの「明けまして」が風に運ばれる。まだ空は暗いのに、元日の気配だけが先に境内へ流れ込んでくる。
午前六時を回るころ、列が鳥居の外へ伸びた。拝殿前では宮司が祝詞の準備をし、桜花たちは授与所の窓を開ける。木枠がきしみ、冷たい空気が一気に入る。手の甲がすぐ乾く。指先がかじかむのを、袖の中でこっそり握りこぶしにして戻した。
「お守りは、こちらでお願いします」
最初のお客さんは、眠そうな顔の大学生二人だった。片方はマフラーを口元まで引き上げている。
もう片方は小銭を探してポケットをまさぐり、出てきた一円玉を見て固まった。
「え、これ…足りる?」
「足りない足りない」
小声のやり取りに桜花は笑いそうになり、口角だけをほんの少し上げた。笑いを外に出しすぎない。忙しい日は、笑いが増えるほど息が浅くなる。
「お守りは千円になります」
「すみません、札あります?」
二人は慌てて財布を開け、落としそうになったカードを拾って、最後にやっと千円札を出した。
桜花が受け取り、授与品を渡すと、二人は深く頭を下げた。新年の頭の下げ方は、普段より丁寧で、少しだけぎこちない。
七時台になると、家族連れが増えた。子どもは眠いのに興奮していて、足元の砂利を蹴り、鈴の紐を引っ張りたがる。抱っこされたまま拝礼する子の靴の裏が、桜花の視界を横切る。
「おねえさん、これなに」
小さな手が、破魔矢の羽根を指した。
「一年の厄を払う矢だよ」
「や、ほんもの?」
「ほんものだけど、投げないでね」
子どもが目を丸くする。横で母親が「すみません」と笑って頭を下げる。その笑い声の端に疲れが混じっているのが分かる。
冬の朝の移動は大人に効く。桜花も同じだ。まだ始まったばかりなのに、足先の感覚が薄い。
九時を過ぎると、境内は一気に賑やかになる。列が二重に絡み、誘導の声が飛び、拝殿前の拍手が波みたいに重なる。二礼二拍手一礼、という型は同じなのに、人の数だけ音がずれる。ずれた音が重なると、ざらりとした一枚の音になる。
授与所の窓口では、お守りの種類の質問が途切れない。
「学業はどれですか」
「縁結びって、恋愛だけ?」
「交通安全は車と自転車で違う?」
桜花は説明を繰り返しながら、手元を間違えないように呼吸を合わせた。札を受け取り、お釣りを返し、品を渡す。指先が紙と紙に触れて乾く。乾くと、紙が皮膚に引っかかって痛い。痛いのに、止まれない。止まると列が詰まり、後ろの人の空気が硬くなる。
昼前、外国から来たらしい若いカップルが窓口に立った。スマホの翻訳画面を差し出しながら、ゆっくり言う。
「オミクジ…ワントゥ…」
桜花は頷き、英語を探すより先に手を動かした。おみくじ箱を示し、引き方を身振りで見せる。二人が笑って頷き、箱を振る。竹の棒が一瞬つかえてから、ころん、と出た。
結果を見て、男性が「オオ…」と声を漏らした。女性が顔を覗き込み、二人で目を合わせて笑う。意味は分からなくても、紙一枚で肩が寄る距離が変わる。その変化が可笑しくて、桜花は今度こそ小さく笑った。
「結ぶ場所、あちらです」
結び所を指すと、二人は「サンキュー」と言って走っていく。走ると砂利が鳴り、境内の音にまた一つ粒が増えた。
午後一時。甘酒の湯気が、救いみたいに鼻先へ届いた。先輩が紙コップを差し出す。
「飲んどきな、倒れるよ」
「ありがとうございます」
熱い。舌を火傷しそうな熱さ。けれど、その熱が喉を通ると、胸の奥が少しだけほどけた。砂糖の甘さが唇に残り、外気の冷たさに触れてすぐ冷える。その冷えが、逆に「まだいける」を作る。
午後は、子どもの泣き声が増える時間でもある。おみくじが思った通りじゃなくて泣く子、列が長くて泣く子、眠くて泣く子。
親は笑って宥めようとするけれど、笑いが薄い。桜花は泣き声を聞くたび、あえて声を一定にした。揺れるものが多いときは、揺れないものが必要だ。
「大丈夫だよ、結んで帰ろうね」
母親に抱かれた男の子が、桜花の顔をじっと見て、泣くのを一瞬止めた。長い黒髪の束の先が揺れるのを目で追っている。桜花が髪を押さえると、男の子はようやく息を吸って、また泣いた。泣き方は少しだけ小さくなった。
夕方、空が青から灰へ滑っていく。提灯が目立ち始め、境内の輪郭が柔らかくなる。そのころが一番、身体に来る。
朝の緊張が薄れて、代わりに足の重さが表に出てくる。草履の中で指が固まり、膝の裏が熱い。
それでも列は途切れない。
仕事帰りの人たちが来る。コートの匂いに、電車の匂いが混ざっている。手袋を外して賽銭を投げる指が赤い。
誰かが「今年こそ」と小さく言い、隣の人が頷く。言葉は短いのに、そこに一日分の重さが見える。
桜花は窓口で、お守りを渡しながら、ときどき拝殿の方を見た。参道の真ん中に立つ大きな絵馬掛けが、いつの間にか紙で埋まっている。願い事が、重なって、重なって、木の色を隠していく。文字は読めなくても、筆圧だけで熱量が分かる。
夜七時。境内の照明が強く感じる時間。昼の光が消えると、人工の光は輪郭を硬くする。人の顔の影が濃くなり、疲れも見える。桜花の手元も少し雑になりかける。お釣りの硬貨が一枚、指から落ちた。床に当たって、からん、と鳴る。
「すみません」
拾う前に、相手の男性がしゃがんで拾ってくれた。指が冷えて、硬貨が手のひらで鈍く光る。
「大丈夫です、忙しいですね」
「ありがとうございます」
その一言が、妙に効いた。忙しいですね、は労いでもあり、現実の確認でもある。
桜花は呼吸を深くして、次の人に向き直った。声を揃える。手を揃える。揃えると、また少しだけ持ち直す。
夜九時を過ぎると、さすがに人の波は細くなる。若いグループが最後にどっと来て、写真を撮り、笑って帰っていく。砂利の音が遠ざかり、境内に隙間が増える。
社務所に戻ると、足の裏がじんじんした。草履を脱いだ瞬間、床の冷たさが足裏に刺さる。刺さって、少し気持ちいい。熱を逃がす場所ができた感じがする。
片づけは、静かな戦いだ。授与品の残数を数え、売上をまとめ、散らかった紙類を揃える。カウンターの端に積まれた小銭の山は、昼間の喧騒が固体になったみたいだった。指先が硬貨を弾くたび、からり、と小さな音が鳴る。
「桜花ちゃん、お疲れ」
「お疲れさまです」
外へ出ると、境内はようやく元日の静けさを取り戻しつつあった。まだ参拝する人はいる。けれど、昼の賑わいではない。足音が一人分ずつ聞こえる。息が白く見える距離で、人と人がすれ違う。
桜花は拝殿前で一度だけ立ち止まった。仕事中は、頭を下げる余裕もなかった。だから今、形だけでも。二礼二拍手一礼。手を打つと、ぱん、という音が夜気に吸われて、すぐ消える。
願い事は言わない。言わない代わりに、今日の手の動きを思い出した。札の手触り、硬貨の冷たさ、甘酒の熱、砂利の音、笑い声、泣き声、拍手の波。全部が一日の中に詰まっていて、詰まったまま身体のどこかに残っている。
帰り道、参道の提灯が連なっている。その灯りの下を歩くと、影が長く伸びる。黒髪の束が背中で揺れ、コートの襟に当たる。歩くたびに、足がまだ少し遅れる。
でも、その遅れは悪くない。今日の重さをちゃんと持っている証拠みたいだった。
鳥居をくぐる直前、桜花は振り返った。境内の奥で、拝殿の灯りが静かに揺れている。人の声は遠く、風の音が近い。元日はまだ始まったばかりで、明日もまた忙しい。
桜花は息を吐いた。白い息が、提灯の灯りの中でほどけて消える。
手のひらを見下ろすと、指先が少し赤い。冷えた赤さじゃない。働いた赤さだ。
「よし」
声は小さく、夜に吸われた。吸われてもいい。自分の中には残る。
桜花は前を向き、参道の外の暗い街へ歩き出した。
元日の夜は冷たい。けれど、足元の熱はまだこたえていた。
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