たった1人の乗客
その宇宙船は、月と地球を定期的に往復している、ありふれた貨客船だった。
田中氏が手に入れたチケットは、格安の「おまかせ便」というものだ。空いた個室を有効活用するためのプランで、いつ出発し、いつ到着するかはすべて装置の自動判断に委ねられている。その代わり、料金は驚くほど安かった。
「田中様、ご搭乗ありがとうございます。これより出発いたします」
天井のスリットから響く声は、聞き飽きるほど事務的な録音音声だった。
広い船内に、乗客は田中氏一人だけ。彼はふかふかのソファに身を沈め、窓の外に広がる退屈な暗闇を眺めていた。自分だけの贅沢な時間を楽しもうとした、その時だった。
船内照明が、不吉に明滅した。
「システム異常を検知しました。運行を一時停止します」
機械的なノイズとともに、船が小さく震える。田中氏は慌ててドアへ向かったが、緊急ロックがかかっており、びくともしない。通信パネルを叩いても、砂嵐が映るばかりだった。
「おい、冗談じゃない! 出してくれ!」
田中氏は絶叫したが、応答はない。
ふと窓の外を見ると、宇宙船は月へ向かう軌道を外れ、暗黒の虚無へとゆっくり漂い出していた。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
絶望に打ちひしがれた田中氏の耳に、ようやく軽やかなブザー音が届いた。
「復旧しました。まもなく到着いたします」
ガタン、と大きな衝撃とともにドアのロックが解除された。
田中氏は逃げるように外へ飛び出した。そこには、月面のまばゆい光景が広がっているはずだった。
しかし、彼の目に飛び込んできたのは、見慣れた地球の、見慣れた宇宙港の景色だった。
「……なんだ、結局、地球に戻ってきたのか」
田中氏が肩を落としていると、足元を一台の小さな清掃ロボットが通り過ぎた。
ふと見ると、宇宙船の入り口に、メンテナンス用の小さな看板が立てられていた。そこには、事務的なフォントでこう記されていた。
『本機は自動倉庫として再利用されることが決定しました。現在、船内の「不要物」を排出中です。ご協力ありがとうございました』
田中氏が自分のポケットを探ると、そこには一枚の「おまかせ便」のチケットがあった。裏面の細かな注意書きをよく見ると、小さな文字でこう書かれていた。
――「本便は効率化のため、積載物の一部として扱われる場合があります」
田中氏は、自分が月へ行くための客ではなく、単に船の重心を調整するための「重り」として積み込まれ、不具合が起きたので真っ先に外へ出されたのだと気づいた。
空はどんよりと曇っており、月はどこにも見えなかった。
(完)
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