除夜の鐘と細胞
未人(みと)
第1話
単一の細胞が、別の細胞を食べていた。
それを、さらに大きな細胞が丸ごと呑み込む。
捕食は連なり、連鎖し、壺の底を蠢く虫たちのように、逃げ場も秩序もなく、ただ増殖していく。
どれが敵で、どれが味方なのか分からない。
食べることが生きることで、食べられることが終わりで、けれど終わったものも、すぐ別の何かの一部になる。
その悍ましい夢から、俺は目を覚ました。
――ああ、これ、たぶん。
免疫細胞が体内で戦っている、そのメタファーだったのかもしれない。
そう思えば納得はできる。熱で朦朧とした頭は、都合よく理屈を後付けしてくれる。
だとしても、年の瀬にはやめてほしかった。
戦え、俺。
負けるな、俺。
せめて年は、元気なうちに跨ぎたい。
そんな内なる檄文とは裏腹に、布団の外では、静かに、確実に、除夜の音が鳴りはじめていた。
鐘の音は思っていたよりも遠く、そして容赦がなかった。
一打一打が、こちらの事情など一切聞かずに時間を進めていく。
寝ていようが、唸っていようが、汗にまみれていようが、年は変わる。
体を起こそうとして、やめた。
起き上がるという行為には、今の俺には少し覚悟が要った。
関節は重く、喉は紙やすりのようで、呼吸をするたびに胸の奥がじくじく痛む。
スマートフォンが布団の上で震えた。
着信音ではなく、あの軽い通知音だ。
家族のグループチャットだった。
【姉】
大丈夫?
……っていうか、看病してくれる彼女とかいないの?
【俺】
余計なお世話だ。
風邪を引いたことと、人生の棚卸しを同時に始めないでほしい。
【父】
気合が足りん
若いんだから寝てれば治る
昔は熱くらいで寝込まなかったぞ
【俺】
出た、根性論。
免疫細胞が必死に戦っている最中に、精神論を追加されても困る。
【母】
熱、何度?
水は飲めてる?
明日の昼にはそっちに行くから、無理しないで
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
反抗期のころは、正直、お節介だと思っていた。
聞かれてもいないのに体調を気にし、
頼んでもいないのに世話を焼こうとする人だった。
でも今は、そのお節介が、はっきりと救いだった。
【俺】
熱はまだ高い
水は飲めてる
来るなら気をつけて
それだけ打つのに、少し時間がかかった。
文字を入力するという行為にも、体力が要る。
送信すると、すぐ既読がついた。
誰かがこちらを見ている。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
画面を伏せ、目を閉じる。
体の奥では、まだ何かが必死に戦っている。
夢の中で蠢いていた虫たちが、現実でも活動を続けているらしい。
頼むから勝ってくれ、と他人事のように思う。
自分の体なのに、すっかり他人任せだ。
しばらくして、水を一口飲めた。
それだけで、少しだけ世界が戻ってくる。
喉を通る冷たさが、「まだ終わっていない」と教えてくれる。
薬も飲んだ。
効いているのかどうかは分からない。
でも「飲んだ」という事実が、かろうじて希望の代わりになる。
外は静かだった。
正月特有の、車の少ない音。
遠くの鐘は、もう鳴り終わっている。
気づけば年は変わっていた。
俺はその瞬間を、布団の中で、ほとんど無意識のまま通過したらしい。
祝えなかった。
何も成し遂げていない。
新しい目標も、立派な抱負も浮かばない。
けれど、朝になった。
それだけで、今日はもう十分だったのかもしれない。
祝いとは、何かを足すことではなく、
何も失わずに済んだことを、あとからそっと確かめる行為なのだと思う。
来年の目標は、年末年始に死にかけないことにしよう。
それを達成できたら、そのときはきっと、ちゃんと祝える。
今日はまだ、無理だけど。
除夜の鐘と細胞 未人(みと) @mitoneko13
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