第6話
昨晩の涙から生まれた青い花は、翌朝になっても枯れるどころか、さらに生命力を増して輝いていた。
不毛の荒野にあって、その一角だけが切り取られた別世界のように、清浄な空気を漂わせている。
「……信じられないわ」
朝食を終え、再び裏庭――まだ岩と砂ばかりだが――に出た私は、その花を見下ろして呟いた。
私の涙が、花を咲かせた。
ヴィクターは「聖女の力」だと言ったけれど、まだ半信半疑だった。実家の父や継母からは「魔力ゼロの役立たず」と十数年も言われ続けてきたのだ。一晩で自信を持てと言うほうが無理な話だ。
「お嬢様、実験をしてみましょう」
背後から、ヴィクターが声をかけてきた。
彼は手には小さな麻袋と、園芸用のスコップを持っていた。
「実験?」
「はい。もし本当にお嬢様の力が植物の生育を促すものなら、これからの辺境生活における食料問題は一気に解決します。……いえ、それどころか」
ヴィクターは意味ありげに言葉を濁し、麻袋からいくつかの種を取り出した。
「これは王都の屋敷から持ってきた、トマトの種です。通常であれば、種まきから収穫まで数ヶ月を要しますが……」
彼は慣れた手つきで固い地面を少し掘り返し、そこに種を蒔いた。
本来なら、こんな栄養のない赤土に蒔いたところで、芽が出るはずもない。
「さあ、お嬢様。この土に手を触れて、強く念じてみてください。『育ってほしい』と」
「……わかったわ。やってみる」
私はおずおずと、種が埋まっている土の前にしゃがみ込んだ。
深呼吸をする。
もし何も起こらなかったらどうしよう。昨日の花はただの偶然で、やっぱり私は無能でした、なんてことになったら。ヴィクターをガッカリさせてしまうのが、何より怖かった。
(お願い……育って。私たちには、食べるものが必要なの)
祈りを込めて、そっと土に触れる。
指先から、土の冷たさと乾いた感触が伝わってくる。
私は心の奥底にある「願い」を、指先を通じて地面に流し込むようなイメージを描いた。
ドクン。
心臓の鼓動とリンクするように、地面が脈打った気がした。
「え?」
次の瞬間だった。
バキバキバキッ!
土を跳ね除け、緑色の茎が勢いよく飛び出してきた。
それは「成長」などという生易しい速度ではなかった。まるで早送りの映像を見ているか、あるいは植物そのものが意思を持って爆発したかのような勢いだ。
「きゃっ!?」
私は驚いて尻餅をついた。
目の前で、トマトの苗はぐんぐんと空へ向かって伸びていく。
私の背丈を追い越し、ヴィクターの身長さえも超え、さらに枝葉を広げていく。
黄色い花がポンポンと咲いたかと思えば、それは瞬く間に萎み、そこから青い実が膨らみ、一瞬にして真っ赤に色づいた。
たった十秒。
わずか十秒前まで種だったものが、今や鈴なりの完熟トマトをつけた巨木――そう呼ぶしかないサイズ――になっていたのだ。
「う、嘘でしょう……?」
呆然と見上げる私に、頭上から熟れたトマトが一つ、ポトリと落ちてきた。
慌てて受け止める。ずっしりと重く、皮は張り詰め、甘い香りが漂っている。
「……素晴らしい」
ヴィクターの声が震えていた。
彼は巨木と化したトマトを見上げ、それから私を見て、深く、深く頭を下げた。
「お嬢様、訂正させてください。貴女はただの『聖女』などではありません」
「え……?」
「通常の聖女の加護とは、土地を浄化し、作物の育ちを『良くする』程度のものです。しかし、これは……『生命の創造』に近い。植物の時間を自在に操り、そのポテンシャルを限界まで、いえ、限界を超えて引き出している」
ヴィクターは私の手の中にあるトマトを指差した。
「このトマト一つに込められた魔力量は、最高級の回復薬(ポーション)に匹敵します。これを食べれば、病人は走り出し、老人は若返るでしょう」
「そ、そんな大袈裟な……」
「いいえ、過小評価です。……お嬢様、貴女は女神だ」
ヴィクターは真顔だった。
普段は冷静沈着で、皮肉屋の彼が、今は熱っぽい瞳で私を見つめている。崇拝と、独占欲の入り混じった瞳で。
「貴女を捨てた国は、これから飢えに苦しむことになるでしょう。彼らは自ら、無限の豊穣をドブに捨てたのですから」
彼は不敵な笑みを浮かべ、落ちてきたトマトをもう一つ拾い上げると、袖で拭ってガブリと齧り付いた。
ジュワッ、と果汁が溢れる。
「……甘い。そして、力がみなぎってくるようだ。これなら、どんな荒野でも一ヶ月……いえ、数日で緑の楽園に変えられる」
「私に、そんな力が……」
自分の手を見る。
ただの小さな手だ。けれど、この手には今、ヴィクターや、これからここで暮らすかもしれない人々を救う力が宿っている。
「ヴィクター、私、もっと頑張るわ。ここを、誰もがお腹いっぱい食べられる場所にしたいの」
「ええ、ええ。貴女ならできますとも。私はそのための手足となりましょう」
ヴィクターは嬉しそうに微笑み、跪いて私のスカートの裾に口づけをした。
「まずは畑を広げましょう。……ああ、それから、このトマトの巨木ですが」
「うん?」
「あまりに育ちすぎて、屋敷の日当たりが悪くなってしまいましたね。……少し剪定が必要ですが、普通のハサミでは刃が欠けそうだ」
見上げれば、トマトの木は二階の窓を覆い尽くさんばかりに茂っている。
私は思わず吹き出してしまった。
「無能」と呼ばれた私が、今では「育ちすぎ」て困らせているなんて。
この辺境での生活は、きっと忙しくなる。
けれど、もう不安はなかった。
私には力がある。そして隣には、世界一頼もしい執事がいてくれるのだから。
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