第5話

ヴィクターの魔法のような家事スキルによって蘇った屋敷での生活は、まるで夢のように快適だった。


ふかふかの羽毛布団で目覚め、朝日が差し込むダイニングに行けば、そこには王都の高級レストランですら霞むような朝食が並べられている。

焼きたてのパンの香ばしい匂い。新鮮な野菜のサラダ。そして、彼が丁寧に淹れた紅茶の湯気。


「おはようございます、お嬢様。昨晩はよくお眠りになれましたか?」


給仕服に身を包んだヴィクターが、完璧な角度で一礼する。

その姿はあまりにも絵になりすぎていて、ここが「死の荒野」の只中であることを忘れさせてしまうほどだった。


「……ええ、ありがとうヴィクター。こんなにぐっすり眠れたのは、久しぶりよ」


私は微笑みを返しながら席に着く。

けれど、胸の奥には鉛のような重たい塊が居座っていた。


窓の外を見れば、そこには依然として赤茶けた不毛の大地が広がっている。

結界のような魔法で守られたこの屋敷の敷地を一歩でも出れば、そこは草一本生えない死の世界だ。


(……私は、ただ守られているだけ)


ナイフとフォークを動かしながら、自己嫌悪が込み上げてくる。

父や妹に「穀潰し」と罵られた記憶が蘇る。


ヴィクターは凄い。

彼は荒野に城を築き、美味しい食事を作り、魔物を遠ざける力を持っている。

けれど、私には何があるだろう?

魔力もなく、剣も振れず、ただ彼の庇護下に隠れて震えているだけの、無力な令嬢。


「お嬢様? お口に合いませんでしたか?」


手が止まっている私に気づき、ヴィクターが心配そうに覗き込んでくる。


「ううん、とっても美味しいわ。……美味しすぎて、申し訳なくなってしまったの」


「申し訳ない、とは?」


私はカトラリーを置き、俯いた。

もう、笑顔を取り繕うことすらできなかった。


「ヴィクター、あなたは優秀すぎるわ。私のような追放された無能な女に仕えるには、あまりにも惜しい才能よ。……今からでも、あなたはもっと相応しい主人の元へ行くべきじゃないかしら」


私の言葉に、部屋の空気が凍りついたような気がした。

ヴィクターは無言だった。

私は怖くて顔を上げられない。きっと彼も、「ようやく気づいたか」と呆れているに違いない。


ガタン、と椅子を引く音がした。

次の瞬間、私の視界にヴィクターの黒い革靴が入ってきた。

彼は私の足元に膝をつき、恭しく私の手を取った。


「リリアナ様」


呼ばれた名前の響きが、泣きたくなるほど優しかった。


「貴女はご自身を無能だと仰いますが、それは大きな間違いです。……貴女は、私がこの世で唯一、忠誠を捧げるに値する御方なのですから」


「……どうして? 私には魔力もないのよ? 実の親にさえ捨てられたのよ?」


「魔力など、あってもろくな使い道をしない人間が五万といます。……お忘れですか? かつて私が路地裏で泥水を啜り、誰からも見向きもされず死にかけていた時、私を見つけてくださったのは貴女でした」


ヴィクターの瞳が、遠い過去を見るように揺れた。


それは、私がまだ五歳だった頃の話だ。

屋敷の裏口に倒れていた、痩せこけた少年。

大人たちは「汚らわしい」「捨てておけ」と彼を蹴り飛ばしたが、私はどうしても彼を放っておけなかった。

自分のハンカチで彼の顔を拭き、こっそりパンを分け与えた。


ただ、それだけの記憶。

気まぐれな子供の同情と言われても仕方がない、些細な出来事だ。


「あの時、貴女は私の薄汚れた手を握り、『生きて』と言ってくださった。……その一言が、どれほど私の魂を救ったか。貴女が覚えていなくとも、この命は貴女のものです」


ヴィクターは私の手の甲に額を押し当てた。

その熱意と重すぎるほどの忠誠心に、私の心は締め付けられた。


「……っ、でも、今の私には、あなたに返せるものが何もないわ!」


私は耐えきれず、席を立ち上がった。

そのままテラスへと続く窓を開け、外へと飛び出した。


「お嬢様!」


屋敷の裏手にある、かつては庭園だったであろう場所。

今はひび割れた岩と、乾いた砂が広がるだけの荒野だ。


乾いた風が吹き付け、頬を打つ。

私は岩場に手をつき、堰を切ったように泣きじゃくった。


悔しかった。

彼がこんなにも尽くしてくれるのに、私には彼を幸せにする力が何一つないことが。

私は一生、彼のお荷物として生きていくしかないのだろうか。

「無能」という呪いの言葉が、頭の中でリフレインする。


「……私なんか、いなくなればいいのに」


ポロポロとこぼれ落ちた涙が、乾ききった赤土に吸い込まれていく。

私の涙なんて、この広大な荒野を潤すことなどできはしない。

ただの水分として、瞬く間に蒸発して消えてしまうだけだ。


そう思った、その時だった。


ピクリ、と地面が動いた気がした。


「……え?」


涙で霞む視界の中で、私の涙が落ちた一点の土が、淡い光を帯びていた。

それは蛍火のような、優しく、温かい光。


ゴゴゴ、と微かな音がして、固い岩盤が割れた。

そこから顔を出したのは、一粒の種――いいえ、芽だった。


信じられない速度で、その芽は茎を伸ばし、葉を広げていく。

まるで早回しの映像を見ているかのように。

数秒もしないうちに、私の膝ほどの高さまで成長したその植物は、先端に大きな蕾をつけ、そして――。


ポンッ。


軽やかな音と共に、大輪の花を咲かせた。

見たこともない、透き通るような青い花。

その花弁からは、キラキラとした光の粒子が溢れ出し、周囲の空気を浄化していくのが肌で感じられた。


「これは……」


呆然とする私の背後から、息を呑む気配がした。

追いかけてきたヴィクターが、目を見開いてその花を見つめていた。


「……やはり。私の目は狂っていなかった」


ヴィクターはゆっくりと私に近づき、咲いたばかりの花に触れようとして、手を止めた。

その花から溢れる神聖な気配に、さしもの彼も気圧されたようだった。


「お嬢様、ご覧ください。これは『精霊花』……高位の精霊が祝福した土地にしか咲かないと言われる、伝説の花です」


「精霊、花……? でも、どうしてこんな荒野に?」


「貴女の涙ですよ」


ヴィクターは跪き、私の顔を覗き込んだ。その瞳には、隠しきれない歓喜と興奮が宿っていた。


「貴女の涙が、死んだ大地に生命を吹き込んだのです。……ベルンシュタイン家は貴女を『無能』と呼びましたが、それは彼らの目が節穴だったに過ぎない」


彼は私の涙を指で優しく拭うと、愛おしげに囁いた。


「貴女は無能どころか、この世界で最も尊い力――生命を育む『聖女』の資質をお持ちだ」


「私が……聖女?」


信じられなかった。

けれど、目の前で風に揺れる青い花は、紛れもない現実としてそこに存在していた。

死の荒野に咲いた、たった一輪の奇跡。


「泣かないでください、お嬢様。……いえ、泣くならば嬉し涙にしてください。貴女の涙で、この荒れ果てた土地は、きっと世界で一番美しい花園になる」


ヴィクターの言葉は、予言のように確信に満ちていた。

私は自分の手を見つめた。

何も持っていないと思っていた手。けれど、そこには確かな温もりが残っていた。


荒野に咲く花と、私を信じてくれる執事。

その二つがあれば、私はもう一度、顔を上げて生きていけるかもしれない。

そう思えた瞬間、胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。

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