第4話

夜が白み始めた頃、私たちの旅はようやく終わりを告げた。


ヴィクターの腕の中でうとうとしていた私は、頬を撫でる風の湿度が変わったことで目を覚ました。

それまでの湿った森の空気とは違う、乾いた、砂混じりの荒々しい風。


「お目覚めですか、お嬢様。到着いたしましたよ」


ヴィクターが軽やかな足取りで停止する。

彼が私を丁寧に地面へと降ろしてくれた場所は、小高い丘の上だった。


「ここは……」


目の前に広がる光景を見て、私は言葉を失った。


西の果て。

かつて古の戦争で焦土と化し、草木一本生えないと言われる「死の荒野」。

父が私に与えた領地とは、まさにこの不毛の大地のことだったのだ。


見渡す限りの赤茶けた大地。ゴツゴツとした岩肌が露出し、生き物の気配など微塵もない。

そして、私たちの目の前にある「屋敷」と思しき建物は――。


「……あ」


それは、屋敷と呼ぶにはあまりにも無残な、石造りの廃墟だった。

屋根は半分以上が崩れ落ち、壁には巨大な亀裂が走り、蔦すら絡まっていない。

窓ガラスは一枚も残っておらず、ただ虚ろな穴が、髑髏の眼窩のようにこちらを見下ろしている。

風が吹くたびに、ヒュウウウ、と亡霊の呻き声のような音が建物の中から響いてきた。


これが、私の新しい家。

そして、私が終わる場所。


「……ふふ」


乾いた笑いが漏れた。

悲しいのではない。妙に納得してしまったのだ。


「お似合いね。無能な私には、この壊れた空っぽの家が、何よりも相応しいわ」


きらびやかな王宮よりも、この廃墟の方が今の私には落ち着くかもしれない。

私は諦めを含んだ溜息をつき、一歩を踏み出そうとした。

雨風を凌げる場所を探さなくては。床の瓦礫を退ければ、少しは眠れるスペースがあるかもしれない。


「ヴィクター、掃除用具はあるかしら。まずは寝床を作らないと……」


そう言いかけて、私は首を傾げた。

隣にいるはずの執事が、動かないのだ。


ヴィクターは、腕を組んで廃墟を凝視していた。

その美貌には、昨日、暗殺者たちに向けたものとはまた違う、別の種類の「殺気」が漲っていた。


「……汚い」


「え?」


「埃、塵、カビ、そして風化による損傷。……許しがたい。私の主人が住まう場所が、このような不衛生極まりない状態だとは。これは執事としての尊厳に関わる問題です」


彼は静かに、しかし煮えたぎるような怒りを露わにしていた。

そして、白い手袋をキュッと締め直すと、私に向かって優雅に一礼した。


「お嬢様、少々後ろへ下がっていてください。埃が舞いますので」


「ヴィクター? 何をするの?」


「何って、掃除ですよ。……大掃除です」


ヴィクターが廃墟に向かって片手をかざした。

その瞬間、彼の手のひらから、膨大な魔力が奔流となって溢れ出した。

それは風属性の魔法でもあり、土属性の魔法でもあり、もっと根源的な「何か」のようにも見えた。


「【執事式・空間再構築(ハウスキーピング・リビルド)】」


ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!


大地が震えた。

私の目の前で、信じられない現象が巻き起こった。


崩れ落ちていた屋根瓦が、まるで時間を巻き戻したかのように宙へと舞い上がり、元の位置へと嵌まっていく。

ひび割れた壁は、地面から湧き上がった美しい白石によって瞬く間に修復され、汚れ一つない滑らかな表面を取り戻す。


「う、嘘……」


それだけではない。

砕け散っていた窓枠には透明度の高いガラスが生成され、朽ち果てていた玄関扉は重厚な黒檀の扉へと変化した。

屋敷の周りの荒れ果てた地面には、どこからともなく切り出された石畳が敷き詰められ、枯れていた噴水からは清らかな水が湧き出し始める。


魔法? いいえ、これはもはや創造だ。

たった一人の人間が、それも詠唱一つなく行っていい規模ではない。


轟音が止んだ時、そこにあったのは廃墟ではなかった。

王都の伯爵邸すら霞むほどの、洗練された白亜の豪邸が、朝日に輝いていたのだ。


私は開いた口が塞がらないまま、その光景を見上げていた。


「お待たせいたしました」


ヴィクターは何食わぬ顔で戻ってくると、ハンカチで額の汗(かいてもいない汗)を拭うふりをした。


「とりあえず、外観と内装の補修、および害虫の駆除と全室の清掃・滅菌を完了いたしました。家具については、王都の隠れ家から転送魔法で一式取り寄せて配置済みです」


「……ヴィ、ヴィクター? あなた、一体何をしたの?」


「申し上げたではありませんか。『掃除』です」


彼は事もなげに言うと、新しくなった玄関扉を恭しく開け放った。


「さあ、どうぞ中へ。温かい紅茶と、焼き立てのスコーンをご用意しましょう。……ここが今日から、貴女のお城です」


差し出された手。

私は呆然としながら、その手を取った。


廃墟だった場所は、まるで高級ホテルのロビーのように生まれ変わっていた。

ふかふかの絨毯、磨き上げられた手すり、そして暖炉には既に心地よい炎が揺らめいている。

つい数分前まで「死の荒野」に絶望していたことが、まるで悪い夢だったかのようだ。


「座り心地はいかがですか?」


彼にエスコートされ、私は柔らかなソファに腰を下ろした。

あまりの現実味のなさに、私は震える声で尋ねた。


「あなたは……本当に、ただの執事なの?」


国一番の魔導師でも、これほどのことはできないはずだ。

私の問いに、ヴィクターは紅茶を注ぎながら、とろけるような甘い微笑みで答えた。


「ええ。ただの執事ですよ。……少々、昔取った杵柄(きねづか)で、破壊と再生が得意なだけです」


湯気の向こうで微笑む彼は、やはりどこか常識の枠を超えていた。

けれど、この温かい紅茶の味だけは、紛れもない本物で。

張り詰めていた緊張の糸が切れ、私はソファの背もたれに深く身を預けた。


最強の執事と過ごす辺境生活。

それは私の予想を遥かに超える、とんでもない日々の始まりだった。

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