第3話
王都を出て数キロほど進んだ街道沿いの森。
ヴィクターの足は、一向に速度を緩める気配がなかった。
抱きかかえられている私は、まるで羽毛布団に包まれているかのように振動を感じない。彼が地面を蹴る衝撃は、彼の体幹によって完全に吸収されているのだ。
「……ヴィクター、あの」
「お静かに。……ゴミが落ちているようです」
ヴィクターが不意に足を止めた。
慣性の法則を無視したかのような静止。
私は彼の腕の中で目を瞬かせた。
街道の前方に、黒い外套を纏った男たちが五、六人、道を塞ぐように立っていた。
彼らからは、パーティー会場の貴族たちとは違う、鋭利な刃物のような殺気が漂っている。
「ベルンシュタイン伯爵の命令だ。……悪いが、娘の命を貰う」
男の一人が、低い声で告げた。手には抜き身の短剣が握られている。
追っ手。
父は、追放するだけでは飽き足らず、私の命まで奪おうというの?
恐怖で体が強張る。
「ひっ……!」
私が震え上がった瞬間、ヴィクターの腕に力がこもった。
彼は私を抱いたまま、深いため息をついた。それは恐怖からではなく、面倒な家事を見つけた時のような、心底うんざりしたような息遣いだった。
「やれやれ。出したばかりのゴミが、もう戻ってきましたか。分別のし甲斐がない」
「何をブツブツと……我々は王家直属の暗殺部隊とも渡り合った精鋭だ。執事風情が太刀打ちできると――」
「お嬢様」
ヴィクターは男の言葉を遮り、優しい声で私に話しかけた。
「少しの間、目を閉じて、耳を塞いでいていただけますか? 三つ数える間だけで結構ですので」
「え? で、でも……」
「大丈夫です。すぐに終わりますから」
彼の言葉には、絶対的な安心感があった。
私は言われた通り、彼の胸に顔を埋め、両手で耳を塞いだ。
「……一」
ヴィクターがカウントを始める。
同時に、風が動く気配がした。
「なっ、消え――!?」
誰かの驚愕の声。
それが微かに聞こえたかと思うと、ドサッ、グシャッ、という湿った音が連続して響いた。
悲鳴すら上がらない。
ただ、空気が切り裂かれ、何かが潰れる音だけが、不気味なほどリズミカルに刻まれる。
「……二」
ヴィクターの声は、私のすぐ耳元で聞こえる。彼は一歩も動いていないはずなのに、周囲では暴風が吹き荒れているかのような気配がする。
鉄の匂い――血の匂いが、鼻をかすめた。
「……三。はい、もう目を開けてよろしいですよ」
耳を塞いでいた手を優しく外され、私は恐る恐る顔を上げた。
「え……?」
目の前の光景に、私は言葉を失った。
道を塞いでいたはずの男たちの姿が、どこにもなかったのだ。
ただ、街道脇の草むらが不自然に揺れ、地面にいくつかの黒い染みができているだけ。
「あ、あれ? あの人たちは?」
「少々、遠くへご退場願いました。二度と戻ってこられない場所へ」
ヴィクターは涼しい顔で微笑んでいる。
その手袋には、血の一滴すらついていない。
服の乱れも、息切れ一つなかった。
「さあ、参りましょう。夜風に当たって、お体が冷えてしまいます」
彼は何事もなかったかのように再び走り出した。
私は彼の肩越しに、遠ざかる街道を振り返る。
月明かりに照らされた地面に、折れた短剣の破片だけが寂しく転がっていた。
最強の執事。
その言葉の意味を、私はまだ本当には理解していなかったのだ。
彼はただの使用人ではない。
私のために、神に背くことさえ厭わない、美しき怪物なのだと。
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