第4話

家の前に着くと、門灯の下に人影があった。


「……遅かったね」


聞き慣れた声に、思わず足が止まる。 


「朱里?」


門柱にもたれかかるように立っていたのは、体操服の上にパーカーを羽織った朱里だった。腕を組み、こちらをじっと見ている。


「……バスケ部、来なかったけど」 


唐突に言われて、言葉に詰まる。


「あ、ああ。ちょっと別のところに行っててさ。体験入部で、先輩に声をかけられて……気づいたら、こんな時間まで」


気まずさから少しだけ言葉を濁す。


「……バスケ部行くって言ってたのに、悪かった」


「うん。別に怒ってない」


朱里は笑顔だった。責めるような調子でもない。 それなのに、なぜか胸の奥がちくりと痛む。


「高校、どうだった?」


「え?」


「楽しかった?」


少しの沈黙。


「楽しかったなら、いいよ。ハヤトが楽しいなら」


一拍置いて、付け足すように言う。


「……私は、ちょっと寂しかっただけだから」


その言葉に、返す言葉が見つからない。


「じゃ、おやすみ」


朱里はそう言って背を向け、数歩歩いてから、ふと思い出したように振り返った。


「明日は一緒に帰ろうね」


「……ああ」


短く答えると、朱里は今度こそ帰っていった。 その背中が角を曲がって見えなくなるまで、俺はしばらく動けずにいた。


◆◆◆◆


俺は玄関の鍵を開け、静まり返った家の中へと足を踏み入れる。


「ただいま……」


返事はない。 リビングもキッチンも明かりは消えたままで、家は昼間の空気をそのまま閉じ込めたように静かだった。


(まだ、帰ってないか)


壁の時計を見ると、もう八時を少し回っている。 たぶん、もうすぐ帰ってくる——。 制服を脱ぎ、エプロンを手に取る。 冷蔵庫を開けて中身を確認し、いつものように夕食の支度を始めた。 包丁がまな板に当たる、規則正しい音。 それに合わせて、今日の出来事が頭の中によみがえる。


(……高校は何だかんだ楽しかったけど、朱里には悪いことしちゃったな)


そんなことを考えながら鍋に火をかけた、その時だった。


「ただいま〜……」


少し間延びした、聞き慣れた声。 玄関の方からドアの開く音がする。


「おかえりなさい」


そう言って玄関へ向かうと、そこに立っていたのは叔母の真希さんだった。 ベージュのコートを羽織り、パンプスを脱ぎながらこちらを見る。 年齢よりずっと若く見える整った顔立ちに、柔らかく細められた目。


「えへへ、遅くなっちゃった。もうご飯作ってくれてるの?」


「はい。もうすぐできますよ」


「ありがとう。ハヤト、本当にえらいねぇ」


そう言って、くすっと微笑む。 その笑顔を見るたび、胸の奥が少しだけあたたかくなる。 六歳の頃、母親を交通事故で亡くした俺は、叔母である真希さんに引き取られる形でこの家にやってきた。その日のことは、今でもはっきり覚えている。


——大丈夫よ。真希おばちゃんがいるからね。


あの言葉に、どれだけ救われたことか。


ちなみに、母親は精子バンクを利用した体外受精で俺を出産しているため、父親はいない。男が少ないこの世界では、たいして珍しいことでもなかった。


「……高校、どうだった?」


真希さんはコートを掛けながら、何気ない調子で聞いてくる。


「まあ……普通です」


「ふふ。普通が一番よ」


そう言いながら、真希さんはゆっくりこちらに近づいてきて、優しく抱きしめてくる。恒例行事だ。


「それにしても、大きくなったわね~」


「そりゃもう高校生ですからね……。  こんなふうに抱きしめられるのも、正直ちょっと恥ずかしいんですが」


胸元に当たる柔らかい感触に、体が反応をしてしまわないよう必死で平静を保ちつつ、苦笑いしてそう告げる。


「私はこの瞬間のために生きてるの。我慢して」


それだけ言って、さらにしばらく——体感で一分ほど——抱きしめられてから、ようやく解放された。


「よしっ。心の充電完了〜」


おっとりと笑って、真希さんはリビングへ向かう。 俺もキッチンに戻ると、鍋から湯気が立ち上っていた。火を弱め、味を確かめてから、皿を並べる。


「今日のは何〜?」


リビングの方から、のんびりした声が飛んでくる。


「生姜焼きです。あと、味噌汁」


「わぁ、いい匂い。ハヤトの生姜焼き、大好き」


そう言いながら、真希さんはソファから立ち上がり、食卓に近づいてくる。 湯気を覗き込むようにして、満足そうにうなずいた。


「本当に……お婿さんにしたいくらい」


「それ、前にも言ってましたよ」


「何度言っても足りないの」


さらっと言われて、思わず苦笑いする。 料理を並べ、二人で向かい合って座る。 箸を持つと、ようやく一日の緊張がほどけていくのを感じた。


◆◆◆◆


食事を終え、二人で後片付けをする。 食器を洗う音と、換気扇の低い唸りだけがキッチンに残った。


「今日は私が拭くね」


真希さんがそう言って、布巾を手に取る。 俺は洗い終えた皿を水切り籠に置き、最後にシンクを流した。


「お風呂、先に入っていいですよ」


「だめ。一緒に入ろ」


特別なことではない。 昔からの、いつもの流れだ。 ——もっとも、前世の感覚で考えれば、高校生の甥と一緒に風呂に入るなんて、なかなかに非常識だろう。 だがここは、あくまで男女比が一対二の別世界だ。そういう常識も、こちらでは少し変わっているのだと思うことにしている。 浴室に湯気が満ちる。 俺は椅子に座り、真希さんの背中を洗う。必要最低限の動作だけを、淡々と。 血が繋がっているとはいえ、六歳までは別々に暮らしていた。 それに、俺には前世の記憶もある。 意識しないほうが難しいのが正直なところだが、真希さんに嫌われたくないという一心で、なんとか煩悩を押し殺す。


「ありがと。やっぱりハヤトがやると楽だわ〜」


「はいはい」


短く返しながら、さっと流す。 それからしばらくして風呂を出ると、次は洗濯だ。 洗濯機を回し、終わるまでの間に明日の準備を済ませる。 やがて夜風に当たりながら、二人でベランダに出て、洗濯物を干す。 白いシャツが揺れ、静かな住宅街に虫の声が混じる。


「今日も一日、お疲れさま」


真希さんが、ぽつりと言った。


「……お疲れさまでした」


それだけ言葉をかわすと、室内に戻り、電気を落とす。最後にアラームをセットしてから自室の布団に入ると、今日一日の出来事が、ゆっくりと遠ざかっていく。

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男女比1:2の世界で青春を謳歌する 感想求 @kansoukudasai

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