第19話 やはり猫は推理を語らない
9 網代一輝 高校生
絵本さんはしっぽでバランスを保ちながら、階段を一段ずつゆっくりと降りた。人間のときとは身体の使い方が違うためか、彼女は苛立ちを覚えるような口調で言った。
「はぁ、やっと降りられた。後ろ足は揃えて降りないとダメみたいね」
「大丈夫か?」俺はスマートフォンをポケットにしまった。
「ええ、それよりちゃんと伝えてくれた?」
「うん、そんなに時間はかからないってさ」
「よかった」
辺りはすっかり暗くなっていた。夜風が昼間の暑さを忘れさせてくれるようだった。草の揺れる音が心地よい。絵本さんはのどかな田園の方を見ていた。彼女の後ろ姿に向かって俺は言った。
「絵本さん、さっきは何を確かめに行ったんだ?」
先ほど彼女の母親──絵本千沙都が亡くなったアパートに着いた時、「確かめたいことがあるから」と言っていきなり彼女は階段を駆け上がった。ほどなくして、「永田刑事に電話をかけて伝えて。犯人が分かったから、ここに来てほしいって」と言ったのだった。
「ドアの鍵穴よ」絵本さんは振り返らず言った。
「何でそんなところを?」
「ピッキングの痕がなかったのかを確かめたかったの。でもそれがなかった」
なかったから何だというのだろう。でも彼女にとっては大きな発見なのかもしれない。そう思っていると、車のライトが伸びていくのが見えた。まっすぐこちらに走って、停車した。
降りてきた人物は懐中電灯をつけてこちらに向けてきた。俺は思わず腕で目を隠した。
「おっ、悪い悪い」永田さんは懐中電灯を消した。「まだ暗さに目が慣れてなくてな」
「大丈夫です。すみません、いきなり呼び出して」
「いや、犯人が分かったと知ればすぐにでも駆けつけるさ。あと、未成年をこんな暗がりで1人……」永田さんは絵本さんの方を見た。「2人にしておくわけにはいかないしな」
俺も絵本さんの方を見た。彼女は表情を変えず、真っ直ぐに永田さんを見ていた。
「ここで立ち話もあれだから、場所を移すか」永田さんは辺りを見回しながら言った。猫にじっと見られていたためか、口調に動揺の色が滲んでいた。
「そうですね……」と俺が言いかけたところで、絵本さんは遮ってきた。
「ダメよ、ここじゃないと」
「わかった」
「なぁ、一輝」永田さんは言った。「今、千蔭さんは何て言ったんだ?」
「ここじゃないとダメだと言ってます」
絵本さんは俺としか話すことができない。永田さんからしてみれば、ただ猫が鳴いているようにしか聞こえないのだ。ここからは俺が彼女の声になる。
「網代くん、まずはこう伝えて──」絵本さんが言ったことを俺は同時に通訳し、永田さんに伝えた。
「永田さんが絵本千沙都さんの死を疑ったのは、あの部屋に違和感を覚えたから」俺は絵本千沙都さんが亡くなった場所を指差した。「あいにく俺は部屋に入っていないので分かりませんが、永田さんが見つけた違和感は、人を殺害することができる仕掛けの痕跡だった。例えば……結露した痕とか」
「ああ、そうだ。なぜ分かった?」
「やはりそうだったのね」と絵本さんは言った。
俺はまた通訳を再開した。「死因は心不全です。犯人はそれを引き起こす仕掛けを施す。方法は簡単です。エアコンの温度を極端に下げるだけでいい。あの人……千沙都さんが亡くなった日の外気温は30度を超えていたので、急激な温度の変化に耐えられず心不全になった」
「そこは俺も分かってる。問題は、誰がこんなことをしたのかなんだ」
「先ほどドアの鍵穴を見てきましたが、ピッキングされたような痕はありませんでした。犯人は部屋の鍵を使って侵入し、犯行に及んだ。それに犯人は、用心深く保険までかけた」
「保険?何だそれは?」暗がりで分からないが、永田さんは怪訝な表情を浮かべているのだろうと、声色でわかった。
「千沙都さんは退勤するときに後頭部に頭痛を訴えていました。原因は多数あると思いますが、死因から考えて血圧が上昇したからだと考えられます。犯人は彼女の体に強い負担をかけ、ヒートショックを起こす可能性を極限まで高めようとした」
「今の話から察するに、絵本千沙都は血圧を急上昇させる薬を盛られたということになる。犯人には明確な殺意があったというわけか」
「そうです」と言ったそのとき、強い風が吹いた。少しの静寂の後、俺は続けた。
「犯人はどのような手で千沙都さんの鍵を手に入れたのか。警戒されず、こっそり鍵を盗むことができる場所──彼女が勤める百貨店の更衣室にあるロッカーだったら、彼女がいない間に更衣室に忍び込み、鍵を手にすることができます。
もし自分が犯人なら、誰の目にも留まらぬよう、従業員の働いている時間帯を狙います。鍵を手に入れ、薬を盛らなくてはいけませんから。時間が必要です。犯人は何食わぬ顔で侵入し、犯行に及ぶことができる人物。部外者ではなく百貨店内部の人間である可能性が高い。犯人は……」
俺は絵本さんの言う通り、スマートフォンで人物を検索した。表示された画像を永田さんに見せた。
「藤堂百貨店の社長、藤堂百花さんです」
「うーん」永田さんは唸った。「筋が通っている良い推理だが、どれも状況証拠だったり、推論の域を出てはいない。警察が動くには、もっと情報がいるんだ。すまない」
「千沙都さんの同僚の証言があります。彼女が亡くなった日、同僚の女性店員が社長から化粧品が入った紙袋を預かって、男性に渡しています。その箱の中に千沙都さんの部屋の鍵が入っていれば、受け取った男性が実行犯になり、藤堂百花には完璧なアリバイが成立します。これが犯人の狙いなら調べるべきです」
「その証言は俺も訊いている。女社長にそれを訊いたとして、ただの商品の受け渡しだと言われればそれまでなんだ。それに、絵本千沙都さんの所持品に部屋の鍵があった。鍵を盗んで実行犯に渡したとして、どうやって鍵を戻すんだ?」
「それは……」絵本さんは言い淀んでしまった。
「本当にすまない、俺の力不足だ」永田さんは絵本さんの方を見て頭を下げた。「お母さんを殺害した犯人を捕まえたいが、今の状況では警察は動けない」
絵本さんは俯き、それ以上、何も話さなかった。
「実行犯がもう一度戻ってきて、藤堂百花さんに渡したならできますよ。その様子が映った防犯カメラの映像があれば……」
「一輝、それは裁判所の令状がないと無理だ。その令状を取るためには、事件性があるということを証明しなくちゃならない。無理なんだ」
「そんな……」俺は力のない返事をした後、絵本さんと永田さんを交互に見た。
ここにいる誰もが、自分の力不足を強く感じていた。
鍵は盗まれたのではなく、複製された可能性だって考えられる。だが、これを言ったところで証拠がなければ藤堂百花を調べられない。完全に手詰まりだ。俺は力いっぱい握りこぶしを作った。
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