第3話 初めての共鳴、或いは凍てつく情事

その夜、私は震える指で禁忌の書を紐解いた。


羊皮紙に記されていたのは、魔法理論の根幹を否定する冒涜的な学説だった。


『個とは幻影に過ぎない。魂の境界を液状化させ、他者と溶け合うことこそが、生物としての究極の進化である』


バルタザールが残した言葉が脳裏に蘇る。


通常の魔術師は、己の魂を源泉として魔力を汲み上げる。 だが、この『魂の共鳴レゾナンス』は違う。 対象の魂に寄生し、導管を繋ぎ、その源泉を我が物として啜り尽くすのだ。


「……吸血鬼と変わらないではないか」


私は自嘲する。 だが、記された術理はあまりにも論理的で、そして今の私にとっては唯一の福音だった。


成功の鍵は『同調』と『支配』。 相手の鼓動、呼吸、魔力の波長に完全に身を委ねつつ、意識の核だけは冷徹に保つこと。


「アルヴィス? まだ起きていたの?」


扉が音もなく開き、寝間着姿の母が入ってきた。 薄いシルクの布地越しに、豊満な肢体が透けて見える。 彼女は湯上がりの蒸気と共に、濃厚な薔薇の香りを纏っていた。


「眠れないのね。可哀想に……今日は私が添い寝してあげる」


拒否権などない。 私はベッドに招き入れられ、母の腕の中に抱きすくめられた。


柔らかく、温かく、そして逃げ場のない檻。


いつもならば、この圧倒的な母性の奔流に思考を麻痺させられ、ただ怯えることしかできなかった。 だが、今の私は違う。 胸元に隠した黒い本の知識が、冷たい楔となって私の理性を繋ぎ止めていた。


(……試すなら、今しかない)


私は目を閉じ、意識を内側へと沈めていく。 母の心臓の音を聞く。 トクン、トクン、と規則正しく打つリズムに、自分の鼓動を重ね合わせる。


呼吸を合わせる。 彼女が息を吸う時、私も吸う。 彼女が吐く時、私も吐く。


「あら……?」


母が嬉しそうに声を漏らした。 私が初めて、彼女に能動的な反応を示したと勘違いしたのだ。 彼女の抱擁が強まる。 魔力が、無防備に私の中へと流れ込んでくる。


(今だ)


私はイメージする。 私と母を繋ぐ見えない管を。 流れ込んでくる奔流を、受け止めるのではなく、根こそぎ『吸い上げる』感覚を。


——簒奪ウズルパーレ


ズズッ、と何かを引き抜くような不快な音が、母の魂の奥底から聞こえた。


「っ……ぁ!?」


母の体がビクリと跳ねた。 しかし、それは苦痛によるものではなかった。 彼女の魔力を私が強引に奪った瞬間、母は恍惚とした表情で頬を染め、熱い吐息を漏らしたのだ。


「アルヴィス、貴方……私を求めているの!?」


少し違う。これは略奪だ。

だが、狂った母にとって、息子からの強引な魔力搾取さえも、愛の交歓として変換されてしまう。


流れ込んでくる魔力は、いつもの暴力的な熱さではなく、私の手足として完全に制御できる冷徹な力となっていた。


私は震える手を、ベッドサイドの燭台にかざす。


「……凍てつけグラキエス


本来なら初級魔術ですらない、火を消すだけの言葉。 だが、私の指先から放たれたのは、部屋の空気を一瞬で凍結させるほどの蒼黒い冷気だった。


パキンッ。


金属製の燭台が、瞬く間に氷結し、音を立てて砕け散る。 超低温の蒼黒い魔力。 それは母の黒い茨の魔力を、私の歪んだ魂というフィルターを通して変換した、破滅の色だった。


「ああ、すごい……すごいわ、アルヴィス!」


母が私の手を握りしめ、その冷たい指先に唇を這わせる。 自分の魔力が奪われ、凶器に変えられたというのに、彼女の瞳はかつてないほどの喜悦に潤んでいた。


「私の力が、貴方の力になっている。私たちは本当に、一心同体になったのね」


母は私の首筋に顔を埋め、深々と息を吸い込む。 まるで、私という存在そのものを肺腑に収めようとするかのように。


私は砕けた燭台の残骸を見つめながら、どうしようもない吐き気を催していた。


成功した。 私は力を手に入れた。


だが、その代償として、母との関係は決定的に変質してしまった。 私は彼女を『母』ではなく、『魔力供給源』として認識し、利用した。

そして彼女は、それを至上の愛として受け入れた。


この先にあるのは、もはや人の道ではない。 互いを食らい合い、溶け合う、獣の如き共依存。


「愛しているわ、アルヴィス。もっと、もっと私を使って……」


耳元で囁かれる甘い毒。 私は絶望と、それを上回る暗い全能感に打ち震えながら、母の背中に手を回した。 その感触は、どこまでも柔らかく、そして底なしの泥沼のようだった。

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