第4話

季節は巡り、辺境の「死の森」は劇的な変貌を遂げていた。

 かつて魔物が跋扈していた鬱蒼たる森は、今や豊かな穀倉地帯となり、湖畔には堅牢な城壁に囲まれた美しい都市が出現していた。

 ドワーフの建築、エルフの農業、そして元騎士団による鉄壁の警備。

 シルヴィア・ラングレーの統治するこの地は、もはや一つの「国」と呼べるほどの繁栄を見せていた。


 だが、その平和を打ち破るように、南の街道から砂塵が舞い上がった。


「来たか……」


 城壁の上で、元騎士団長のレオルフが双眼鏡を下ろした。

 彼の隣には、憂いを帯びた表情のシルヴィアと、いつも通り涼しい顔で紅茶のポットを持ったグレンが立っている。


「数は約五千。正規兵は少なく、大半が傭兵や農民を無理やり徴兵した寄せ集めのようです」

「五千……。そんな数で、この魔境を越えてくるなんて」


 シルヴィアが悲痛な声を漏らす。

 彼らはここへ来るまでに、森の魔物に襲われ、すでにボロボロだった。

 それでも行軍を止めなかったのは、指揮官である第二王子ジェラルドの執念――いや、狂気と言うべきか――によるものだろう。


「シルヴィアァァァァッ!!」


 城壁の下から、拡声魔法を使った絶叫が響いた。

 黄金の鎧(無駄に装飾が多い)に身を包んだジェラルド王子が、馬上で剣を振り上げている。


「出てこい! この泥棒猫め! 俺の国から盗んだ資源で、勝手に城など造りおって! それは全て俺のものだ! 今すぐ城門を開け、その老いぼれと共に処刑台につけ!」


 その顔はやつれ、目は血走っている。

 王都ではすでにクーデター寸前の騒ぎが起きているという噂だ。彼は起死回生の一手として、この辺境の「隠し財産」を奪いに来たのだろう。


「殿下、おやめください!」


 シルヴィアが城壁から身を乗り出して叫んだ。


「この地は、私たちと住民が血と汗を流して開拓した場所です。王国の所有物ではありません! それに、これ以上兵士たちを傷つけないでください。彼らはもう限界です!」

「黙れ黙れ黙れ! 逆らう気か! 俺は王子だぞ! 次期国王だぞ!」


 ジェラルドは聞く耳を持たない。

 彼は背後の兵士たちに向かって怒鳴り散らした。


「何をしている! 攻撃だ! あの城壁を破壊しろ! 中にある金銀財宝は好きにしていい、女も好きにしろ! だから突撃しろぉっ!」


 報酬に釣られた傭兵たちが、雄叫びを上げて突進を開始する。

 後方からは魔導師部隊が詠唱を始め、巨大な炎の球が城壁に向かって放たれた。


「ちっ、迎撃用意! シルヴィア様をお守りしろ!」


 レオルフが号令をかけ、部下の騎士たちが弓を構える。

 だが、それよりも早く、一人の老人が動いた。


「……やれやれ。せっかくのティータイムが台無しですね」


 グレンだ。

 彼はポットをシルヴィアに預けると、ひらりと城壁を飛び越えた。


「えっ!? 爺や!?」


 高さ二十メートルはある城壁から、迷いなくダイブしたのだ。

 老執事は重力を感じさせない優雅な動作で着地すると、五千の軍勢の前にたった一人で立ちはだかった。

 その手には武器すら持っていない。いつものステッキだけだ。


「おい見ろ、あの老いぼれだ!」

「自殺志願者か? ひき肉にしてやる!」


 先頭を走っていた傭兵たちが、槍を構えてグレンに殺到する。

 同時に、上空からは無数の火球が降り注ぐ。

 逃げ場はない。誰もがグレンの死を確信した瞬間――。


 ――閃。


 世界が一瞬、モノクロームに反転したような錯覚。

 音が消えた。


 次の瞬間。

 降り注いでいたはずの火球が、すべて「真ん中から両断されて」霧散した。

 それだけではない。

 グレンに突き出された十数本の槍の穂先が、音もなく地面に落ちたのだ。


「……はい?」


 先頭の傭兵が、棒きれになった槍を見て呆然とする。

 グレンはステッキ(に見せかけた仕込み刀)を、チャキリと鞘に納める動作をしていた。

 抜刀した姿を見た者は、誰もいなかった。


「本日は休園日となっております。お引き取りを」


 グレンは穏やかに告げた。

 だが、後方のジェラルド王子が叫ぶ。


「何をしている! たかが老人一人だ! 魔法だ! 最大火力で消し飛ばせぇッ!」


 王子の命令により、魔導師団が広域殲滅魔法の準備に入る。

 さらに、投石機やバリスタも照準を合わせた。

 これだけの飽和攻撃を受ければ、いかにグレンといえども無傷では済まない――はずだった。


「ふむ。聞き分けのない子供には、少し強めのお仕置きが必要ですか」


 グレンは深く息を吸い込んだ。

 その瞬間、彼の周囲の空気が変わった。

 ピリピリとした静電気が肌を刺すような感覚。

 城壁の上で見ていたレオルフが、ガタガタと震え出した。


「く、来るぞ……! 総員、瞬きするな! あれぞ伝説の……『剣聖』の奥義だ!」


 グレンが、ゆっくりと腰を落とす。

 左手を鞘に添え、右手を柄に掛ける。

 ただそれだけの構え。

 だが、対峙した五千の兵士たちは、巨大な死神に鎌を突きつけられたような幻覚を見て、足がすくんだ。


「――剣聖流・秘奥義」


 グレンの口が動く。

 

「『無刀取り・空(くう)』」


 抜刀音はしなかった。

 斬撃も見えなかった。

 ただ、戦場全体に一陣の風が吹き抜けただけだ。


 カチャン。

 カキン。

 パリン。


 乾いた音が、連鎖的に響き渡る。

 兵士たちが持っていた剣が、槍が、斧が。

 魔導師が握っていた杖が。

 投石機の極太のロープが。

 ジェラルド王子の腰の剣が。


 その全てが、砂のように崩れ落ち、粉砕されたのだ。


「あ……あ……?」


 兵士の一人が、手の中に残った「持ち手」だけを見つめて震えている。

 五千人、五千個の武器。

 その全てが、たった一振りの斬撃によって破壊されていた。

 しかも、兵士たちの体には、かすり傷一つついていない。

 神業などという次元ではない。

 これは、現象の書き換えだ。


「戦意(ぶき)は折りました。まだやりますか?」


 グレンが静かに問いかける。

 戦場を支配するのは、圧倒的な沈黙と恐怖。

 傭兵たちは武器を捨て(既に壊れているが)、悲鳴を上げて逃げ出した。

 魔導師たちも腰を抜かして動けない。


 ただ一人、ジェラルド王子だけが、現実を受け入れられずに震えていた。


「な、な、なんだ……今のは……! 貴様、何をした! トリックだ! イカサマだ!」

「殿下」


 いつの間にか、グレンは王子の馬の目の前に立っていた。

 馬が恐怖で嘶き、王子を振り落とす。

 泥まみれになって這いつくばる王子の鼻先に、グレンは杖を突きつけた。


「ひっ!?」

「昔、貴方様は私に聞きましたね。『なぜ私に剣を教えてくれないのか』と」

「そ、そうだ! 俺は天才だ! 王族だ! なのに貴様は……!」

「貴方には、決定的に欠けているものがあるからです」


 グレンの瞳が、冷徹な光を帯びて王子を射抜く。

 それは、ただの老人の目ではない。

 数多の戦場を渡り歩き、屍の山を築いてきた修羅の瞳だ。


「剣とは、守るべきもののために振るう刃。己の欲望のために振るう剣は、ただの暴力です。……今の貴方のように、脆く、弱い」


 グレンが杖で、王子の黄金の鎧をコツンと叩く。

 すると、あろうことか鎧にピシピシと亀裂が走り、バラバラと砕け散った。

 残されたのは、下着姿で震える情けない男一人。


「ひ、ひぃぃぃっ!! く、来るな! 殺さないでくれぇぇッ!」

「殺しはしませんよ。掃除が終わっただけです」


 グレンは興味を失ったように背を向けた。

 その背中越しに、ジェラルドの股間からじわりと温かい染みが広がっていくのが見えた。


「――そこまでだ!!」


 戦場の空気を切り裂くように、威厳ある声が響いた。

 遅れて到着した王国の本隊。

 その先頭に立っていたのは、この国の国王、フェルディナンド陛下その人だった。


「ち、父上……! 父上ぇぇ! こいつらが! この逆賊どもが私を!」


 ジェラルドが泣きつきそうとするが、国王は冷ややかな目で息子を見下ろした。

 そして、馬を降り、グレンの前へと歩み寄る。

 国王は、深々と頭を下げた。


「……申し訳なかった、グレン殿。そしてシルヴィア嬢」

「へ、陛下!?」


 国王の謝罪に、残っていた兵士たちがどよめく。

 だが、国王は震える声で続けた。


「愚息が、まさか『剣聖』グレン殿の逆鱗に触れるとは……。間に合わなければ、我が国は地図から消えていたところだ」

「陛下。私はただの引退した執事ですよ」

「とぼけないでくれ。先ほどの斬撃、王都からも観測されたぞ」


 国王はため息をつき、腰を抜かしているジェラルドを一瞥した。


「ジェラルド。貴様を王族籍から除名する。一生、塔の地下牢で罪を償え」

「そ、そんな……嘘だ……俺は……」

「連れて行け!」


 近衛兵に引きずられていくジェラルドの絶叫が遠ざかる。

 マリー男爵令嬢も、すでに詐欺罪で拘束されたとの報告が入っていた。


 戦場は静寂を取り戻した。

 城壁の上から降りてきたシルヴィアが、グレンに駆け寄る。


「爺や!」

「お怪我はありませんか、お嬢様」

「それはこっちのセリフよ! もう、無茶して……」


 シルヴィアは涙ぐみながら、グレンの服の埃を払った。

 グレンはくすぐったそうに微笑む。


「無茶などしておりませんよ。ただ、少々、庭の害虫が多かったもので」


 そう言って笑う老執事の顔は、かつての「剣聖」のものではなく、どこにでもいる好々爺のものに戻っていた。

 こうして、愚かな王子の侵略劇は、たった一人の老執事によって幕を閉じたのである。

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