第3話

一方その頃、王都の王城にある執務室は、地獄のような様相を呈していた。


「ええい、なんだこれは! 書類が山積みではないか! 決裁待ちの案件が三日分も溜まっているぞ!」


 第二王子ジェラルドは、机の上に積み上がった羊皮紙の塔を崩し、ヒステリックに叫んだ。

 床にはインク壺が転がり、高価な絨毯を黒く染めている。


「シルヴィアはどうした! おい、シルヴィアを呼べ! これを片付けさせろ!」

「で、殿下……。シルヴィア様は、殿下が三日前に追放されたではありませんか……」


 侍従が恐る恐る告げると、ジェラルドは顔を真っ赤にして机を叩いた。


「わかっている! だが、あいつがいなくなってから、何もかもがおかしいのだ! 予算の計算が合わない、他国との交渉記録が見当たらない、お茶の味が不味い! あいつは俺への嫌がらせのために、重要な書類を隠して出ていったに違いない!」


 濡れ衣もいいところだった。

 これまで膨大な公務を完璧に処理していたのはシルヴィアであり、ジェラルドはただ判子を押して「俺は有能だ」とふんぞり返っていただけなのだ。

 その土台が抜ければ、城が傾くのは道理だった。


「ジェラルド様ぁ〜。そんな紙切れなんて放っておいて、私とお話ししましょうよぉ」


 ソファで寝そべっていた男爵令嬢のマリーが、甘ったるい声を上げた。

 彼女はドレスの裾を乱し、クッキーを齧りながら書類を眺める。


「字がいっぱい書いてあって、目がチカチカしますぅ。こんなのを読むなんて、時間の無駄ですよぉ」

「そ、そうだなマリー。君の言う通りだ。だが、財務大臣がうるさくてな……。少しは君も手伝ってくれないか?」

「えー? 私、難しい言葉はわかりませぇん。聖女の力で、みんなを癒やすのが仕事ですからぁ」


 マリーは可愛らしく首を傾げた。

 実際、彼女には「魅了」の魔力以外に取り柄がない。政務能力は皆無だった。


 その光景を、部屋の隅で冷ややかに見つめる男がいた。

 王国の騎士団長、レオルフだ。

 歴戦の猛者であり、その剣技は現役の騎士の中で最強と謳われている。


(……終わったな、この国は)


 レオルフは心の中で深く嘆息した。

 彼が忠誠を誓っていたのは、聡明なシルヴィア公爵令嬢と、彼女を影で支える「あの御仁」がいたからこそだ。

 その二人がいなくなった今、この城に残っているのは、欲望と無能の掃き溜めだけだった。


「おいレオルフ! 何をしている、お前も手伝え!」


 ジェラルドが八つ当たりのように怒鳴る。


「私は剣を振るうことしかできませんので」

「ちっ、役立たずの筋肉だるまが! どいつもこいつも無能ばかりだ!」


 罵倒されたレオルフは、しかし表情を変えなかった。

 彼の意識は、すでにこの部屋にはない。

 窓の外、遥か北の空に向けられていた。


(……感じる)


 三日前から、北の空――「死の森」の方角から、凄まじい「剣気」が届いているのだ。

 常人には感じ取れないだろう。だが、剣の道を極めんとするレオルフには、肌に突き刺さるような鋭い殺気が伝わってくる。

 この国で、これほどの気配を放てる者は一人しかいない。


 かつてレオルフに剣のイロハを叩き込み、コテンパンに打ちのめし、剣の道を示してくれた「師匠」。

 あの猫背の老執事だ。


「……殿下」

「ああん? なんだ」

「長期休暇を頂きます。探さないでください」

「はあ? この忙しい時に何を……おい、待て! どこへ行く!」


 レオルフは王子の制止を聞かず、マントを翻して執務室を出て行った。

 廊下には、すでに武装した彼の部下たち――精鋭部隊の騎士五十名が整列していた。


「団長。準備はできています」

「うむ。この腐った城にはもう未練はない。我らが真に仕えるべきお方は、北にいらっしゃる」

「はっ!」


 この日、王国の国防の要である近衛騎士団の主戦力が、ごっそりと姿を消した。

 王都の守備力が半減したことに王子が気づくのは、まだ先のことである。


 ◇ ◇ ◇


「……な、なんだこれは」


 数日後。

 死の森の入り口に到着したレオルフたちは、我が目を疑った。

 そこには、彼らが想像していた鬱蒼とした魔境はなかった。


 綺麗に舗装された石畳の道。

 整然と植林された果樹園。

 そして湖畔には、王城よりも立派でセンスの良い、巨大な石造りの屋敷が建っていたのだ。

 ドワーフの建築技術の粋を集めた、堅牢かつ優美な要塞屋敷である。


「ここが……死の森だと? まるで王族の別荘地ではないか」

「団長、あれを! 畑で動いているのは……ゴーレムですか?」

「いや、あれはエルフ族の精霊魔法による自動収穫人形だ。なぜ人間嫌いのエルフとドワーフが協力しているんだ……?」


 部下たちが困惑する中、屋敷の正門から一人の女性が出てきた。

 農作業着に身を包んでいるが、その気品は隠せていない。シルヴィアだ。


「あら? まあ、レオルフ騎士団長ではありませんか」

「シルヴィア様!」


 レオルフは馬を降り、駆け寄って片膝をついた。


「ご無事で何よりです! 追放されたと聞き、部下一同、心配で夜も眠れませんでした」

「ふふ、ありがとう。でも見ての通り、私たちは元気よ。ここは空気も美味しいし、温泉も湧いたの」

「お、温泉まで……?」


 レオルフが呆気にとられていると、屋敷の裏手から「ズズズ……」という重い音が響いた。

 現れたのは、巨大な銀色の狼――エンシェント・ウルフだ。

 その背には、大量の薪と、狩ったばかりのワイバーン(飛竜)が三匹ほど積まれている。


「魔獣ッ! シルヴィア様、お下がりください!」


 レオルフが反射的に剣を抜く。部下たちも一斉に構えた。

 だが、シルヴィアは苦笑して手を振った。


「大丈夫よ、あれはポチ。うちの番犬だから」

「ポ、ポチ……? 伝説の魔獣フェンリルの眷属が……ポチ?」


 混乱する騎士たちの前に、狼の横からひょっこりと人影が現れた。

 燕尾服の袖をまくり、片手には剪定鋏を持った老執事。グレンである。


「おや、騒がしいと思ったら。お客様でしたか」

「し、師匠……ッ!」


 レオルフは感極まった声を上げ、地面に額をこすりつける勢いで平伏した。


「お探ししておりました! このレオルフ、師匠の背中を追いかけ、ここまで参りました!」

「……人違いでしょう」


 グレンは無表情で即答した。


「私はただの庭師です。ほら、庭の雑草(マンイーター)が伸びてきたので、手入れをしていたところでして」


 言いながら、グレンは剪定鋏をチョキンと鳴らした。

 その何気ない動作と共に放たれた不可視の斬撃が、上空を飛んでいた別のワイバーンの首を音もなく切り落とした。

 ドサッ、と遠くで何かが落ちる音がする。


「……ご覧の通り、ただの庭木の手入れです」

「い、いえ! 今の剣気、まさしく師匠のもの! とぼけないでください!」

「困りましたねぇ。最近は耳も遠くて」


 グレンは「やれやれ」と肩をすくめ、シルヴィアに向き直った。


「お嬢様、お客様のようですが、茶葉が足りませんね。少し裏山(ドラゴン生息地)で摘んできましょうか」

「爺や、レオルフ様たちが困っているわよ」

「おや、そうですか? 皆さん、地面に頭をつけて、何かの宗教儀式かと」


 レオルフは顔を上げ、涙目で訴えた。


「師匠! どうか我らを置いていかないでください! あの腐敗した王国には、もはや我らの居場所はありません。どうか、この地で我々を雇ってはいただけないでしょうか!」

「雇う、ですか?」

「はい! 門番でも、畑仕事でも、下水掃除でも構いません! 師匠の元で修行ができるなら、給金などいりません!」


 後ろに控えていた五十人の精鋭騎士たちも、一斉に頭を下げた。


「お願いしますッ!!」


 野太い声が森に響く。

 グレンは困ったように眉を下げ、ポリポリと頬をかいた。


「はぁ……。お嬢様、どうされますか? 人手は多いに越したことはありませんが、食費がかさみますよ?」

「もう、爺やったら。レオルフ様たちは国の英雄よ? それに、これからの開拓には力仕事ができる人が必要だわ」


 シルヴィアは優しく微笑み、レオルフの手を取った。


「歓迎します、レオルフ様。何もない場所ですが、ゆっくりしていってください」

「あ、有難き幸せ……ッ!」


 こうして、王国最強の騎士団が、辺境の開拓民(兼、警備隊)として加わった。

 彼らは後に、その常識外れな強さで、攻めてくる外敵をことごとく畑の肥料にしていくことになるのだが、それはまた別の話である。


 一方、主力を失った王国では、いよいよ取り返しのつかない事態が進行していた。

 隣国が、不穏な動きを見せ始めたのだ。

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