第9話 もう「バイト代」じゃ追いつかない

 気づいたきっかけは、

 本当にどうでもいいことだった。



 家賃の引き落とし日。


「……あ」


 通帳を見て、俺は一瞬固まった。


(減ってない)


 いや、正確には――

 減っているのに、増えている。



 バイト代が入る前。

 競馬の開催も、まだ。


 なのに残高は、

 先月より多かった。


「……そういうことか」


 計算するまでもない。


 競馬の収支が、

 生活費を完全に上回っている。



 三か月前。


 競馬は「趣味」だった。

 一か月前。


 「副収入」になった。


 そして今――


(これ、もう“柱”だな)



 競馬場。


 ベンチに座るひよりに、

 俺は何気なく言った。


「今月、バイト代より

 競馬の方が多いです」


「……え?」


 ひよりは、一拍遅れて固まった。


「え、待って」


「はい」


「“ちょっとプラス”とかじゃなくて?」


「普通に、です」



 数秒の沈黙。


 それから、ひよりは笑った。


「……すご」


 声が小さい。


「いや、すごすぎでしょ」



「でもさ」


 ひよりはすぐに真面目な顔に戻る。


「調子乗ったら終わりだよ?」


「分かってます」


 即答だった。


 むしろ、

 調子に乗らないために、今が怖い。



 それでも、現実は変わらない。


 資金は増える。

 選択肢も増える。


 無理に賭けなくても、

 “やるべき時だけやれる”。



 ある日。


 ひよりが、ぽつりと言った。


「ねえ……」


「はい?」


「もしさ」


 少し照れたように。


「私が急にバイト辞めたら、

 どうする?」


「……何の話ですか」


「冗談だよ、冗談」


 でも、目は本気だった。



(ひよりも、気づいてる)


 この関係は、

 ただの「競馬仲間」じゃない。


 生活に影響するレベルに、

 なり始めている。



 その日の帰り。


 駅のホームで、

 俺は初めて思った。


(前世みたいに、

 全部失うことはしない)


 この世界では――

 守りながら、増やす。


 それが、

 桐生こういちのやり方だ。



 もう戻れない。


 「金がない大学生」には。


 でも――

 まだ誰にも言っていない。


(本当に怖いのは、

 金が増えることじゃない)


 それに気づかれることだ。

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