第6話 年賀の夜、水木荘

年が変わる前後、新開地にある水木荘の戸口には必ず二度、風が入る。

 一度目は生きている者のため。

 二度目は、戻る者のためだ。


 橘薫は玄関で靴を脱ぎながら、背中にひやりとしたものを感じていた。水木湯の方から流れてくる湯気が、夜気に溶けず、廊下に溜まっている。


「やっぱり、ここは苦手だわ」


 そう言いながらも、橘は逃げなかった。

 横には鶴屋朱美、少し遅れて久保田、そして直子がいる。


 久保田は、ここに来る理由をはっきり理解していた。

 佐々木望――親友。

 だが今夜は、善之という名で呼ばれる存在。


「年賀だけ済ませたら、すぐ帰ろう」


 久保田の声は落ち着いていた。

 直子だけが、黙ったまま廊下の奥を見つめている。


 管理人室の小窓が開いた。


「年賀かい」


 遠野小雪だった。

 老婆の姿だが、声には年齢がない。


「ええ、ご挨拶に」


 朱美が答えると、小雪は頷き、直子を見た。


「……あんた、まだ人の形を保ってるね」


 直子の肩が、わずかに震えた。


 廊下の奥、水木湯へ続く渡りの向こうから、足音がする。


「遅かったな」


 現れた男を見て、久保田は息を呑んだ。


「……佐々木?」


 男は微かに笑った。


「久保田。久しぶりだな」


 その顔は確かに佐々木望だった。

 だが、目だけが違う。深く、底が見えない。


「今は善之だ。ここではな」


 橘が一歩前に出る。


『あなた、生きていたの?

何故、、、


薫は抱きついた。

その感触を確かめるため


叶は18になったわ、会ってあげて!』


「すまない、、、詳しく語れない、、、わかるな」


善之あるいは佐々木望はゆっくり、しかし断固として橘薫を引き剥がした。


 善之は廊下を見回した。


「水木荘と水木湯。境目が緩むのは正月だけだ。年賀は、その確認だよ」


 朱美が封筒を差し出す。


「受け取らない」


 善之は首を振った。


「文字は、ここでは意味を失う」


 封筒は畳に置かれ、静かに燃え、名前だけが消えた。


「……直子」


 善之が呼ぶ。


 直子は一歩下がった。


「私は……もう違う」


「分かってる」


 善之の声は優しかった。


「戻る時間だ」


 その瞬間、直子の足元から、白い影が溢れ出した。

 服が、輪郭が、音もなくほどける。


「直子!」


 橘が叫ぶ。


 白い猫が、畳の上に座っていた。

 片目に、見覚えのある傷。


「……ジュニア」


 朱美が呟く。


 猫は一度だけ、彼女たちを見上げた。

 その目には、確かに直子の記憶があった。


 小雪が杖を鳴らす。


「正月は、正しい姿に戻る日さ」


 善之が猫を抱き上げ、水木湯の方へ向かう。


「佐々木!」


 久保田が叫ぶ。


 善之は振り返らなかった。


「久保田。お前は生きていろ」


 湯気が流れ込み、姿が消える。


 廊下は、元の長さに戻った。


 玄関に戻ると、下駄箱の端に、小さな足跡が残っていた。

 猫のものだ。


「……行ったのね」


 橘が言う。


 久保田は何も言わず、深く頭を下げた。


 その夜、水木荘では誰も死ななかった。

 ただ一匹の白猫が、水木湯の奥へ帰っていった。


 年が明け、廊下はもう伸びない。


 だが善之――佐々木望は、今も境目に立っている。


 名前を持ちすぎた者が、二度と重ならぬように。

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