エピローグ

 いつもなら、病棟のどこかで聞こえてくるはずの声が、最近は少し静かだった。

 爽やかで、元気で、犬みたいに人懐っこい。

 患者からもスタッフからも親しまれていた綾瀬が、このところどこか元気がない。


「ねえ、綾瀬」

 日勤終わり、記録を打っていた綾瀬に声をかけたのは、先輩看護師だった。

「今日、予定ある?」

「え?」

「なかったらさ、私たちと飲みに行かない?」

 隣にいたもう一人の先輩も、にやっと笑う。 「たまには付き合いなさいよ」

 一瞬、言葉に詰まったあと、綾瀬は軽く頭を下げた。

「……わかりました」

 

 連れて行かれたのは、駅前の小さな居酒屋だった。

「とりあえず、かんぱーい」

 グラスを合わせ、綾瀬もそれに合わせて口をつける。

 喉を通るアルコールは、思ったよりも苦かった。


 しばらくは他愛のない話が続いていたが、一杯目が半分ほど減ったところで、先輩の一人が箸を置いた。

「……で?」

 じっとこちらを見る。

「なんか、聞いてほしいこととかないの?」

 綾瀬は一瞬、視線を逸らした。

 察されたのはわかっている。

「いや、その……」

 言葉を探すように、グラスを見つめる。

「ちょっと……報われなかったことがあっただけっす」

 小さく笑って付け足す。

「すみません」


 先輩二人は顔を見合わせ、それから肩をすくめた。

「何があったか、無理に聞く気はないけどね」 「うん。でも、言いたくなったら聞くけど」 「たださ、最近、元気ないなって思ってたのよ」 「そうそう。あんたらしくない」


「……すみません」

 そう答えながら、綾瀬は俯いた。

 すると先輩は、少し真面目な声で言った。 「元気出しなさいよ、なんて薄っぺらいこと言う気はないわ」

「うん。ただね、あんたの笑顔を待ってる患者さん、たくさんいるのよ」

「それ。最近、患者さんにまで心配されてるんだから」

「愛されてるのよ、あんた。看護師として」


 その言葉に、綾瀬の喉が詰まった。

 笑おうとして、うまくいかない。

「……ありがとうございます」

 少しだけ、目が潤んだのを、先輩たちは何も言わずに見守った。

「ほら」

「美味しいもの食べて、力つけなさい」

「はいっ」

 綾瀬はそう答えて、少しだけ肩の力を抜いた。

 

「そうだ、綾瀬」  

 先輩が改まる。

「昨日、あんた休みだったでしょ」

「はい」

「昨日退院した佐藤さんね」

 そう言って、一通の便箋を差し出す。

「お世話になった看護師さんたちにって、関わった人みんなに手紙くれたのよ。これ、あんたの分」

「……え」

 受け取って、そっと開く。


『耳が遠い私に、いつも笑顔で、ちゃんと言葉を届けてくれてありがとうございました。

 見ていたらわかります。あなたと話した患者さんは、みんないい顔になっていました。

 これからも、応援しています。

 お世話になりました。

                 佐藤』


 文字を追ううちに、視界が滲んだ。

「……っ」

 便箋を持ったまま、綾瀬は俯く。

 肩が小さく震えた。

「あらあら」

「男の子が泣いちゃって」

 先輩たちは、笑いながらも、何も言わずにそっとしておく。

 しばらくして、綾瀬は顔を上げた。

 目元は赤いが、表情は少しだけ、前よりも柔らかい。

「……ありがとうございます」

「はいはい」

「さ、明日からも頑張りましょ」

「はい」

 その返事は、少しだけ、前よりも力強かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る