After the After Story くすぐったい夜
お互い翌日が休みの、初めての夜だった。
二人は不破の部屋――駅から少し離れた、静かなアパートの一室で、ソファに並んでくつろいでいた。
特別なことをするつもりはなかった。
ただ、同じ時間を、同じ空間で過ごしているだけなのに、それだけで胸の奥が落ち着いていく。
やがて、部屋には光流の控えめな笑い声が響く。
「……すみません、くすぐったくて」
場の空気を壊した気がして、胸の奥がざわついた。けれど不破は一瞬きょとんとしてから、ふっと口元を緩める。
「いや、笑ってる光流がかわいいからいい。……もっと笑って?」
思いがけない言葉に、胸の奥が大きく跳ねた。からかわれているんじゃない。本気の声音に、どう応えていいのかわからない。
そんなふうに真っ直ぐ言われたことなんてなくて、心臓がうるさい。
笑いを抑えようとすればするほど、余計に息が詰まって、肩が震える。
触れる手が、優しいだけじゃなくなっていくのが分かる。
指先が、逃さないように、そっと力を帯びる。
くすぐったさに紛れて、じんわりとあたたかいものが広がっていく。
笑っているはずなのに、喉の奥から零れる吐息が、知らない響きを帯びていた。
先輩の声が、少し柔らかく、しかし真剣に響く。
「……光流。名前で呼んで?」
顔が熱くなり、息が詰まりそうになる。
怖い。
名前を呼ぶだけなのに、心を差し出すみたいで。
けれど、先輩の眼差しに支えられるように、ほんの一瞬、息を整えてから――
「……隆史」
言葉がこぼれた瞬間、心臓がぎゅっと縮まった。怖さは消えない。だけどその奥で、不思議なほどあたたかいものが、かすかに芽生えていた。
不破の腕の中、胸に耳を預けると、鼓動が早まっているのが伝わる。
その早さに、自分の呼吸もつられていく。
ただのくすぐったさじゃない。身体の奥で、心がじんわり震え、胸の奥に温かい波が広がっていく。
笑いの余韻は、いつのまにか甘く、心を満たす感覚に変わっていた。
その温もりを確かめるように、光流はもう一度、そっと身を預けた。
祈りのアベ・マリア After Story ―あなたの手をとるまで― 音野彼方 @OtonoKanata
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