第4章 選ぶということ 第2話 踏み出す前に
その日は夜勤だった。
午前二時を少し過ぎた頃、光流はスタッフルームの壁に掛けられた日めくりカレンダーを一枚、めくった。
紙の擦れる音だけが、妙に大きく響く。
放射線科には窓がない。
照明の明るさも、空調の音も、夜と昼の区別を曖昧にする。
今が何時なのか、時計を見ないとわからなくなっている。
せわしなく動いているうちにふと視線を向けると、針はすでに日勤者が来る時間を指していた。
——もう、そんな時間か。
しばらくして、ドアが開く。
入ってきたのは、不破だった。
「お疲れ」
短い一言。
夜勤明けの人間に向けられる、いつもの声だった。
「……おはようございます」
光流はそう返して、端末の前に立つ。
検査の進行状況、夜間の急患、注意点。
必要なことだけを、淡々と伝える。
「ここは問題なしです」
「了解」
不破は頷きながら聞いていたが、最後に一言だけ添えた。
「お疲れさん」
それだけだった。
労い以上の意味を持たせるでもなく、何かを探る様子もない。
不破はすぐに自分の業務に戻っていった。
光流は、気づかないふりをして、少しだけ深く息を吐いた。
肩の奥に溜まっていたものが、ゆっくり下りていく。
更衣室でユニフォームを脱ぎ、私服に着替える。
鏡に映る自分の顔は、夜勤明けらしく少し疲れていた。
それでも、どこか安心したようにも見える。
職員玄関を出たところで、足音が近づいた。
「あ、光流さん」
顔を上げると、綾瀬だった。
出勤してきたばかりなのだろう、私服姿で、表情もいつも通り明るい。
「夜勤明けですか?」
「うん」
それだけのやりとり。
綾瀬はすぐに笑顔になって言った。
「お疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね」
気遣いとして、完璧だった。
光流は自然に会釈を返す。
「ありがとう。綾瀬くんも、頑張ってね」
ちゃんと声が出た。
ちゃんと、笑顔も作れた。
「はい。いってきます」
綾瀬は軽く手を振って、院内へ向かっていく。
その背中を、光流は少しだけ見送った。
何も起きなかったことにほっとして、同時にその背中を見ながら胸がきゅっとなった。
自分の表情に、少しだけ疲れが残っているのを感じる。
それが、夜勤明けのせいなのかどうかは、わからなかった。
光流は歩き出す。
朝の空気は冷たく、頭が少し冴えていく。
考えないようにしている。
でも、返事を決めなきゃいけないと、わかっている。
「好き」という言葉は、まだ怖い。
でも――
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