第3章 向けられた問い 第4話 音に導かれて(後編)
ピアノの蓋が閉じられる音は、ひどく静かだった。
ホールに残っていた余韻が、ゆっくりと空気に溶けていく中。
――及川
そう名前を呼ばれて、光流はわずかに肩を揺らした。
振り返ると、不破が立っている。
私服で、いつもの無表情に近い顔。
けれど、その視線だけは、まっすぐこちらを見ていた。
「……不破先輩」
光流は、小さく頭を下げる。
どこか気まずそうに視線を落としたまま、ピアノから手を離す。
「……ピアノ、弾けたんだな」
不破の声は低く、淡々としていた。
「……はい。一応、少し」
言い訳のように付け足しながら、光流はピアノから一歩下がる。
本当なら、もっと早く片づけて、立ち去るべきだった。
けれど、不破は続けて言った。
「このあと、予定あるか」
光流は一瞬、言葉に詰まる。
「……いえ」
「じゃあ」
不破は少しだけ間を置いてから、
「外、少し歩かないか」
それは、命令でも誘い文句でもなかった。
ただ、事実を確認するような口調。
光流は、ほんの数秒迷ってから、うなずいた。
建物を出ると、午後の空気は思ったよりもやわらかかった。
建物の影に沿って、二人は並んで歩く。
会話はない。
けれど、不思議と気まずさだけが募ることもなかった。
「……姉がな」
先に口を開いたのは、不破だった。
「切迫早産で入院してる」
光流は、驚いたように目を上げる。
「そう、だったんですね……」
「相当、きついらしい。動けないのが一番つらいって」
少し間を置いて、不破は続けた。
「でも、一回だけ、楽になったことがあるって言ってた」
光流の足が、わずかに止まりかける。
「ホスピタルピアノを聴いたらしい」
不破は、前を向いたまま言った。
「張りつめてたものが、すっと緩んだ気がしたって」
光流は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「……さっきの曲」
不破が、歩調を緩める。
「《月の光》だよな」
光流は、黙ってうなずく。
「きれいだった」
一拍。
「……お前みたいだったよ」
光流は、はっとして不破を見る。
冗談とも取れない、不器用な言い方。
不破は、ようやく足を止めた。
「俺は」
その声は、低く、逃げ場がなかった。
「及川、お前のことが好きだ」
空気が、静止する。
光流の喉が、かすかに鳴った。
嬉しさより先に、苦しさが胸に広がる。
「……不破先輩」
声が、少しだけ震えた。
「……すぐには、返事できません」
不破は何も言わない。
ただ、遮らずに待っている。
光流は、唇を噛んでから、続けた。
「私……変わってるんです。実は…」
言葉を選びながら、ゆっくりと。
「女の人も、男の人も……好きになったことがあって」
視線を落としたまま、息を整えようとする。
「本当は……自分のことは『私』じゃなくて『自分』って言いたいんです。自分がどういうやつなのかも、未だにわからない」
言いながら、努力してもやはり呼吸は詰まっていく。
苦しい。
声がわずかに震えていく。
「私は――怖いんです。こんな自分であるせいで、壊れたり失ったり……」
心の片隅で、どうしてこんなに話してしまうのだろうと冷静に感じている部分もあった。
けれど。まっすぐこちらを見ている不破の前で、どうしょうもなく吐き出してしまう自分を止められなかった。
「誰かを大事に思うことも、誰かから思いを受け取ることも、何かが壊れていくことも……すごく、怖い」
告白を拒む理由を並べているようで、嫌だった。
けれど、嘘はつけなかった。
不破は、少しだけ眉を動かした。
それから、静かに言う。
「――そうか。ただ……」
光流は、顔を上げる。
「俺が好きなのは」
不破の声は、揺れていなかった。
「及川光流」
一歩、距離を詰める。
「それ以外に理由、いるか」
光流は、言葉を失った。
胸の奥で、何かが崩れていく音がする。
怖さも、不安も、全部消えたわけじゃない。
それでも。
誰かに、こんなふうに言われたのは、初めてだった。
何も言えないでいる光流に、不破はそっと続けた。
「返事は、できるようになったらでいい。お前の気持ちが落ち着くまで、待つから」
光流はただ、小さく頷くのがやっとだった。
不破が空を仰ぎ見る。
「明日からまた仕事だな。お互い頑張ろうぜ」
そう言って、ふっと優しい笑顔をみせた。
「じゃあな」
不破は片手を上げたかと思うと、そのまま光流に背中を向け歩いて行く。
光流はその背中を見つめつつ、もう戻れない場所まで来ていると感じていた。
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