第3章 向けられた問い 第3話 音に導かれて

 とある日の昼下がり。

 東十字病院の病棟は、相変わらず静かだった。


 不破はエレベーターを降り、面会受付を抜けて廊下を歩く。

 見慣れたはずの白い壁と、消毒液の匂い。

 自身も病院勤務だが、職場とは違うここへ来るたび、背筋の奥が少しだけ硬くなる。


 病室のドアをノックしながら、

「……姉さん」

 と声をかける。

「どうぞ」

 聞き慣れた声が返ってきた。


 不破がカーテンから顔を出すと、ベッドの上の森下由依が小さく笑った。

「来てくれたんだ」

「用事のついでに寄っただけだ」

 そう言いながら、椅子を引いて腰を下ろす。

 由依は相変わらず、ベッドから体を起こさないままだった。


「調子は?」

「まあ……変わらず、かな」

 言葉とは裏腹に、由依の目には疲れがにじんでいる。

 

 由依は天井を見上げて、息を吐いた。

「横になってなきゃいけないのが、一番きつい。ちょっと背中を起こしてテレビ見るだけでも注意されるし」

 不破は、何も言えずに黙って聞いていた。

「……でもね」

 ふと、由依の声の調子が変わる。

「前に一回だけ、いいことがあった」

「いいこと?」

「ホスピタルピアノ」

 その言葉に、不破の眉がわずかに動く。

「診察の帰りに、たまたま聴こえてきて。クララ・シューマンの《献呈》だったの」


 由依は、少し照れたように続けた。

「昔、ピアノ習ってたでしょ。あの曲、好きだったから」

 口にする由依の表情は柔らかかった。


「最後に《アベ・マリア》の旋律が出てきた瞬間……なんか、ね」

 胸のあたりに手を置く。

「張りつめてたものが、すっと緩んだ気がした。状況は何も変わらないのに、不思議よね」


 不破は、短く息を吐いた。

「……弾くやつ、いるんだな、あのピアノ」

「うん。なんでも、病院関係者のお孫さんらしくて。ボランティアで不定期にたまに、弾きにくるんだって。でも――」

 由依はふわっと笑う。

「シャイな人らしくって、近づくとすぐやめちゃうんだって」

 由依は、くすっと笑った。

「ラッキーだったわ。あの日は」

 しばらくして、不破は立ち上がった。

「無理するなよ」

「はいはい」

 病室を出て、エレベーターに向かう。


 扉が閉まり、一階へ降りていく間、由依の言葉が頭の中に残っていた。


 エレベーターが開く。

 そのときだった。

 どこからか、音が流れてくる。


 ピアノ。

 足を止めた瞬間、不破はそれが偶然じゃないと悟った。

 音は、はっきりとした方向性を持って、ホールの奥から届いている。

 気づけば、不破は音を追っていた。

 吹き抜けのホール。

 人影はまばらで、午後の光が床に落ちている。

 グランドピアノの前に、ひとり。

 見覚えのある背中。


 ——及川。


 及川光流は、グランドピアノに向かっていた。  鍵盤に落とされた指は迷いがなく、音は静かに、しかし確かに空間を満たしていく。

 《月の光》。

 不破は、息をするのを忘れていた。

 やがて、及川がふと顔を上げる。

 視線が、ホールの入り口にいる不破とぶつかった。

 

 一瞬。


 及川の目が、わずかに見開かれる。

 ——やめるか。

 そう思ったのが、伝わった気がした。

 けれど。

 及川は視線を鍵盤に落とし、もう一度、音を置いた。

 そのまま、最後まで弾き切るつもりなのだと、不破にはわかった。

 不破は、その場から動けなかった。

 音が消える。

 余韻だけが、ホールに残る。

 及川が静かに立ち上がり、ピアノの蓋を閉めた。

 不破は、ゆっくりと歩み寄る。

「……及川」

 名前を呼んだ瞬間、胸の奥で、何かが決まった気がした。


(後編へ)

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